■山内享子さん(43) 神奈川県平塚市
夕刻、JR平塚駅(神奈川県平塚市)近くにある市民活動センターの一室に人の輪ができた。地元の「防災を考える会」の打ち合わせ。輪の中心に山内享子さん(43)の姿があった。
年明けには平塚市内の小学生らと一緒につくった「防災かるた」の大会があり、その準備にも追われるが、穏やかな笑顔を絶やさない。
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阪神・淡路大震災で、神戸市中央区内の社宅は家具がなぎ倒され、温水器の熱湯があふれた。
夫の転勤で移り住み、九年を過ごした神戸。大好きな街だった。だが、幼い長男が体調を崩したことなどから、震災の半年後、平塚の自宅に戻った。やがて夫も関東に異動になった。
落ち着きを取り戻すにつれ、紡いできた絆(きずな)の深さに気づく。ピアノを教えていた子どもたちに、さよならも言えずに平塚に越してきた。震災の翌年、神戸に向かい、ようやく再会を果たした。
神戸の友人と電話で話していて、どうしても会いたくなり、新幹線で駆けつけたこともある。
平塚の人たちは、震災を体験した一家を気遣ってくれた。けれど、神戸に残り、苦楽を共にしていたならば-。そんな思いが寄せては返す。募る寂しさ。揺れ動く気持ちを胸の奥に封印することで、日々を生きてきた。
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転機は昨年の夏に訪れた。「震災の体験を話してほしい」と親しい知人に頼まれ、戸惑いながらも引き受けた。
地元の自治会の集会。初めてあの日からの出来事を語った。すさまじい揺れ。「子どもさんに」と、避難所で近所の人が水を譲ってくれたこと。急に熱を出した長男を抱いて、液状化したポートアイランドから船で大阪に向かった日の不安…。
平塚市は東海地震の対策強化地域でもあることから、その後も講演依頼が相次いだ。小学校や地域の集会など、“語り部”としての活動は三十回近くになった。子どもたちには、地震の恐怖だけを植え付けてしまわないよう、特に心を配る。いつか災害に遭っても、その体験をしっかり受け止め、生き抜いてほしいと思うからだ。
一度は封じ込めた記憶を語ることは、身を切られるようだった。それでも話し続けるうち、胸にあったわだかまりが少しずつ解けていった。
山内さんは今、幼児教室を経営している。子どもの自主性を尊重する教育法の指導者資格を取得し、三年前に起業した。ただ一度の人生、本当にしたいことをしようと、震災という体験に背中を押されての挑戦だった。
神戸にも、同じ思いでこの十年を頑張って生きてきた人がきっといる。そう信じることで、今も神戸とつながっていると実感する。
2004/12/22