求心力であり続けた小田実の名はそこにはなかった。
阪神・淡路大震災が起きた「1・17」に合わせ毎年、芦屋市内などで開かれているシンポジウム。震災から十三年を迎える今年は、神戸大名誉教授早川和男(76)、弁護士伊賀興一(59)、「公的援助法」実現ネットワーク被災者支援センターの中島絢子(67)、市民=議員立法実現推進本部事務局長、山村雅治(55)の四人だけが呼び掛け人に名を連ねた。
被災者に対する公的支援を求めた「市民立法」運動を出発点に、小田とともに被災者支援の在り方を問い続けた四人。十四日のシンポでは、小田が被災地内外に発信してきたメッセージの意味をもう一度確かめようとも考えている。
シンポの会場は小田の盟友山村がオーナーを務める文化サロン。長い道のりはこの山村サロンから始まった。
96年5月25日
サロンにいたオーナー山村に電話が入る。旧知の小田だった。「市民立法の形でやろう。わしと早川さん、伊賀さんとで」。「市民立法って?」。戸惑う山村。間もなく姿を見せた小田が口を開く。「声明を出しても政府は何もせえへん。市民で公的支援の法律をつくり、成立させるんや」
伊賀、早川が到着し、サロンの喫茶室で四人が向きあう。伊賀が条文の私案を配った。「全壊世帯に三百万円? そんなんで足りるかいな」と小田。早川も「生活基盤回復に住宅再建は不可欠」と同調する。額は「五百万円」に修正された。
小田は前文にこだわる。「憲法のように、法案の魂をきちんと書いておきたい」。「社会は市民によって構成され…」「公的援助制度を市民の発議で…」。山村は「即興詩人のようだ」と聞き入る。資料が散乱する机にワープロが持ち込まれた。白熱する議論。小田が「ビールをくれ」とだみ声を上げた。
約二時間後、前文と全六条で構成する草案が完成する。略称・生活再建援助法と命名された。
昨年十一月九日の衆院本会議。被災者生活再建支援法改正案が全会一致で可決、成立する。政府が「個人補償につながる」と反対してきた住宅本体再建への公費支援を実現させた。
同日、閣議後の会見で泉信也防災担当相は「被災者に元気を出してもらい、復興が進むように制度をきちんと実行していく」と約束した。
「被災者の声 国動かした」-。今年のシンポはこんなフレーズが掲げられた。
昨年七月三十日未明、胃がんのため、七十五歳で亡くなった小田。その死の数時間前。即日開票された参院選の大勢が判明し、自民は歴史的大敗を喫する。参院で与野党が逆転した「ねじれ国会」が自民、公明、民主三党の共同提案という「超党派」による法改正を可能にした。草案誕生から十一年。小田が熱っぽく説いた「市民=議員立法」の一つの結実だった。
シンポの案内チラシはこう締めくくられる。
「小田さんの魂を私たちは受け継いでいます。彼はなお、私たちの集まりの中に生きています」
◆
兵庫県西宮市の香櫨園浜を望むマンションで被災した作家小田実。ベストセラー「何でも見てやろう」で一世を風靡し、ベトナム反戦運動では先頭に立った。そして、晩年の小田を駆り立てたのは、被災者支援をめぐる「市民立法」だった。一人の「市民」として、多くの市民に参加を呼び掛けた運動。「一緒にやろう」が小田の遺言のように響く。(敬称略)
「市民立法」をめぐる動き | |
1995・01・17 | 阪神・淡路大震災発生 |
1995・01・24 | 「市民救援基金」呼び掛け |
1996・05・25 | 「生活再建援助法案」の草案作成 |
1996・11・20 | 国会議員会館で「市民=議員協議会」発足 |
1997・05・20 | 「災害被災者等支援法案」参院に上程 |
1998・05・15 | 「被災者生活再建支援法」成立 |
1999・01・13 | 県庁で「生活基盤回復援護法案」発表 |
1999・06・26 | 広島県の豪雨災害に支援法初適用 |
2004・03・31 | 被災者生活再建支援法が改正 |
2007・07・30 | 小田実死去 |
2007・11・09 | 被災者生活再建支援法が再改正 |
<被災者生活再建支援法>
1998年、被災者に現金支給するため議員立法で制定。「住宅を含む生活基盤の回復は国の責務」と、全壊世帯に500万円を支給、最高2000万円の貸付制度を設ける-などとした小田実らの生活再建援助法案に対し、支援法は年齢、年収などの要件を満たした全壊世帯に生活必需品購入費として上限100万円を支給する、とした。04年の改正で大規模な半壊世帯にも対象を拡大、がれき撤去費なども含め、支給限度額が最高300万円に引き上げられた。昨年の再改正では、さらに住宅本体の建設費にも充てられるようにした上、年齢・年収要件を撤廃、受給手続きも簡素化した。
この連載は記事を木村信行、小川晶、金旻革、写真を山崎竜が担当します。
2008/1/11