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(2)「善意」から 共助の先に描いた公助
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園舎 震災前、震災後、そして今も。園庭に響く子どもの歓声は変わらない=西宮市中殿町
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園舎 震災前、震災後、そして今も。園庭に響く子どもの歓声は変わらない=西宮市中殿町

園舎 震災前、震災後、そして今も。園庭に響く子どもの歓声は変わらない=西宮市中殿町

園舎 震災前、震災後、そして今も。園庭に響く子どもの歓声は変わらない=西宮市中殿町

 「仮設」で走り続けた十二年間だった。

 西宮市中殿町、無認可の「はらっぱ保育所」。昨年夏に完成したログハウス風の園舎から子どもたちの明るい笑い声が響く。

 阪神・淡路大震災で旧園舎が被災。寄せられた寄付金で三カ月後にプレハブ施設を建て、手狭な仮設園舎で保育を続けてきた。

 待ち望んだ新園舎の建設費は三千五百万円。「西宮市に援助を頼んだが、無認可保育所に付ける予算は残念ながらないと言われた」と代表の前田公美(53)は話す。カンパの形で再び支援の手を差し伸べたのが保護者や卒園生、そして市民。「大勢の人の、無私の心」を実感した。

 はらっぱは無認可のまま、二〇〇一年六月に保育所では全国的にも珍しいNPO法人格を取得。前田が振り返る。「震災で多くの人に支えられた。NPOとして社会的な存在になり、力になりたいと思った。小田実さんの活動に通じるような」

95年5月

 五月三日。はらっぱに「市民救援基金」の現金五十万円が届けられる。

 小田が書いた直筆の手紙。「市民が市民を助ける。隣人がより困っている隣人を助ける。これが、このささやかな基金の原理であり、原点」

 小田は基金を震災七日目に立ち上げた。市民に募金を呼び掛け、それを市民に「分配」。呼び掛けは海外のメディアでも紹介される。半年間で国内外の約九百人から計三千万円の「原資」が寄せられた。

 芦屋市楠町の知的障害児・者施設「三田谷治療教育院」にも、小田が現金百万円を届ける。対応した施設長の堺孰(さかい・みのる)(67)に「行政のやることには必ず隙間(すきま)が出る。それを埋めるのが基金」と繰り返した。

 妻の玄順恵(ヒョンスンヒェ)(54)らもたびたび同行。「うちは家内工業」と笑わせた。「義援金は市民の善意にすぎん。なんぼなんでも、国は公的支援に踏み切るやろ」。小田は玄に言った。

 同教育院は本館など二棟が全壊し、要した復旧費用は一億二千四百万円。しかし公的補助は二割強に過ぎず、交付は一年半後だった。堺は、小田が言い放った「国に代わって社会事業をやる人への責任も放置される。あんたはそのサンプルや」を鮮明に覚えている。

 商社マンから福祉に転じた堺。「震災後の復興のフィルターを通して国の姿が見えてきた。日本は、もっと市民の目線に立つべきだ」と話す。

95年10月

 十月十三日の衆院予算委。被災者に対する個人補償をめぐる質疑が行われる。答弁に立った首相村山富市は「社会の建前として、個人の財産被害を国が補償する仕組みになっていない」。安保・防衛政策や景気対策を含め、首相の指導力に対する不満から内閣支持率は政権発足以来の最低を更新する。

 この時期。西宮市内の自宅で食事していた小田が玄に漏らす。「誰もせえへんのか。しゃあないな」。どこか逡巡(しゅんじゅん)するような響きだった。

 それから二カ月後。弁護士伊賀興一(59)のもとに小田から電話が掛かる。「国がやらんのなら僕らがやるしかない。市民立法や」。腹をくくったような強い口調。伊賀は漠然と実現の予感を抱く。(敬称略)

2008/1/12
 

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