静かな境内に足を踏み入れると、時が戻る。
「景色が変わっていないのはここだけ。僕らの遊び場だった」
阪急西宮北口駅の東にある高木熊野神社。阪神・淡路大震災で、6歳下の弟誠君=当時(12)=を亡くした津高(つたか)智博さん(37)=西宮市高木東町=は、激しい揺れに耐えた社殿を見上げる。
同駅北東地区には瓦ぶきの旧家が並び、多くの人が崩れた家屋の下敷きになった。高木東町では12人、隣の高木西町、北口町を含めると計61人の命が奪われた。
北口町で母文子さん=当時(73)=を失った江見正治さん(66)は震災後、いったんは西宮を離れた。自宅は借地。大阪で銀行に勤めていた江見さんは、転居する選択もあったが、2年後、同じ場所に自宅を再建した。
細い路地が残り、隣近所が肩を寄せ合うような風情が好きだった。母は買い物に出ると、なかなか帰ってこない。あちこちで立ち話。「まるで家族のようだった」
だが震災後、両隣の住人は戻ってこなかった。商店街は再開発ビルに変わり、従業員は町外の人ばかり。あいさつを交わす人は少なく、生前の母を知る人はほとんどいない。「きれいにはなったが、今でも自分のまちという気がしない」
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津高さんは2004年に結婚した後も、実家近くのアパートに住む。弟の面影が残るまちから離れたくなかった。
震災前、町内には田畑が広がり、自宅裏には農業用水が流れていた。幅1・5メートル、深さ1メートルほどの小さな水路。津高さんが軽々と跳び越えると、小学生だった誠君も負けじとジャンプした。「落っこちてよく母に怒られて」。水路沿いを競走し、ささ舟を浮かべて2人で眺めた。
高木東町で生まれ育って37年。震災から19年が過ぎ、区画整理で一新されてから過ごす時間の方が長くなった。「震災前の記憶が年々、思い出に変わっていく。あの頃のまちが遠い古里のように感じる」と寂しげに語る。
毎年1月17日は、弟が通った高木小学校の追悼式に出向き、「復興の鐘」を鳴らす。
震災後に生まれた子どもや新たな住民に、遺族の悲しみを押しつけるつもりはない。ただ、「ここでたくさんの命、風景が失われたという歴史は知ってほしい」。
いつまでも、まちに「1・17」の鐘が響くことを願う。
(松本大輔)
2014/10/28