「ダイエーは神戸に育ててもらい、地元企業という意識が強かった。阪神・淡路大震災のときは、お客さんが待っている。ただその信念が私たちを突き動かした」
創業者・中内功(故人)の長男で元副社長の潤(59)=中内学園理事長=にとって、大震災の記憶は鮮烈だ。
「街の灯(あか)りを消したらあかん」。功はすぐに神戸に入り、げきを飛ばした。潤は当日早朝にできた対策本部を指揮した。手を尽くし、ヘリコプターやフェリー、タンクローリーなどを総動員。被災地に物資を届けた。「商品の供給を続け、人々に安心してもらうことが流通の使命。ビジネスを超えた思いだった」
それから20年。曲折を経てダイエーは最大手のイオン(千葉市)の傘下にある。9月24日、社長の岡田元也(63)は「2018年度までにダイエーの屋号をなくす」と発表した。「流通革命」を体現した中内功の痕跡は完全に消える。今も父を「ボス」と慕う潤は屋号の消滅について「今は何も言うべきでない…」と口をつぐんだ。
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神戸には随所にダイエーの「夢の跡」がある。高度成長期、神戸市は「山、海へ行く」として名をはせた開発手法で成長路線をひた走った。ダイエーも市の開発地域に相次いで進出。スーパー、レストラン、ホテル、大学…。
「神戸が輝いた時代の象徴だった」。太陽神戸銀行(現三井住友銀行)時代、ダイエーを担当した神戸商工会議所副会頭でみなと銀行元頭取の籔本信裕(69)は振り返る。
しかし、大震災は、神戸市とダイエーに決定的な打撃を与えた。
震災後、官民は「創造的復興」の理念を掲げ、「エンタープライズゾーン」など規制緩和を軸にした大型プロジェクトを推し進めた。苦境にあえぐ地域経済の再生を引っ張る起爆剤を狙った。
地元政財界は突破力のある中内に産業分野のかじ取り役を期待した。「神戸経済復興円卓会議」で座長を委嘱し、大規模テーマパークを想定した集客施設プロジェクトの推進役を依頼した。
だが、日本経済の長期低落とともに、ダイエーは輝きを失っていく。経済復興も国に規制緩和の特例を認めてもらえないままけん引役を欠き、デフレ不況に沈んだ。
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「国に絶望した」。震災後そう語った中内は、口癖の「自主、自立、自己責任」を繰り返した。一方で本業の業績不振は深刻だった。バブル崩壊以降、消費者のニーズは多様化。総合スーパーは時代に合わなくなった。震災からの再建も重くのしかかり、対応が遅れた。
拡大路線がたたって2兆円超の有利子負債を抱え、小泉政権時代、不良債権処理の象徴となる。04年には自主再建を断念。国が主導する産業再生機構へ支援を要請した。「ダイエーの敗北」とOBらは嘆息する。
05年、中内は83歳で死去。震災から10年、戦後60年の年だった。その後、丸紅、イオンの傘下になったが、再建は進まなかった。13年にイオンから送り込まれた現社長、村井正平(64)は語る。
「中内さんが主導したフロンティア精神と、受け継がれたDNAは枯渇していた」
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阪神・淡路大震災からの経済復興。描いた夢と、その後の20年が示す現実。地域経済の歩みを検証する。=敬称略=
(土井秀人、加藤正文)
2014/11/13