東京電力福島第1原発の事故から間もなく9年。原発が立地する福島県双葉町は事故後、放射線量が高く立ち入りが制限される「帰還困難区域」に指定され、今なお全町避難が続く。先に避難指示が解除された他の市町村でも住民の帰還はなかなか進まない。地元住民と移住者、それぞれの立場から「止まった時」を動かそうと奮闘する人たちを訪ねた。(勝沼直子)
2月半ば、双葉町の帰還困難区域に町職員の案内で入った。
原発3キロ圏内にある双葉南小学校の教室や廊下、昇降口にはランドセルや教科書などが散乱していた。
9年前、震度6強の揺れで屋外に逃げた時のままだという。原発事故で翌朝には全町避難が決まり、それきり戻ってこられないと誰が想像しただろう。当時の1年生は高校生になった。時が止まったような光景に原発事故の理不尽さを思う。
対照的に改修工事を終えたJR双葉駅は、新駅舎の黒壁が遮るものもなく青空に映えていた。
駅周辺を含む「特定復興再生拠点区域(復興拠点)」は帰還困難区域内で除染やインフラ整備を集中的に進めるエリアとして設定された。3月4日、駅前などごくわずかな範囲ながら同町初の避難指示解除にこぎつけ、14日にはJR常磐線が全線再開する。止まっていた時間がようやく動きだそうとしていた。
■変わらぬ姿残したい
「何とか間に合いました」。駅に近い復興拠点内にある初発(しょはつ)神社の高倉洋尚宮司(58)は、再建された拝殿を見上げ感慨深げだ。
復興拠点全域の立ち入り制限も緩和され、日中は出入りが自由になる。だが、人が住めるようになるのは早くて2年後。高倉さんも避難先のいわき市から車で約1時間かけて通う。人が住まなくなった家屋は野生動物に侵食され、にぎわいの中心だった商店街も荒廃が進む。「駅に降り立った人が安心して立ち寄れる場所をつくりたい」。その一心で再建を急いだ。
帰還困難区域での作業だけに、放射線管理と建設業者探し、改修費の工面など難問だらけだったが氏子らの協力を得て一つずつ乗り越えた。
特に腐心したのは神社の代名詞だった唐破風の屋根をそのまま残すこと。足場を組み、屋根を宙に浮かせた状態で、傾いた拝殿を解体し、改修後に屋根を載せ直した。残した屋根や彫刻は徹底的に除染した。
高倉さんは「自分の帰るところはここしかない」と、生まれ育った町での住宅再建を考えている。だが今後、帰還する町民がどれだけいるかは分からない。「一時帰省した人が変わらぬこの屋根を見て、双葉に帰ってきたと感じてくれたら」
町東部の一角にある避難指示解除準備区域では農地再生の取り組みが始まった。美しかった田園風景は伸び放題の雑草や雑木に覆われ荒野と化した。双葉町農地保全管理組合長を務める沢上栄さん(69)は、除染済みの農地が再び荒廃しないよう仲間と手分けして、いわき市から除草などの手入れに通っている。
昨年9月、出荷制限解除に向けた野菜の試験栽培を始めた。ところが翌月発生した台風19号で冠水し、順調に育っていた野菜は放射性物質のモニタリング検査に使えなくなってしまった。「挫折しそうになるよ。でも、若い人に引き継げるよう健康なうちはできることをしたい」
■地域の未来見届ける
会ってみたい人がいた。楢葉町に住み「福島県浜通り移住ライター」として活動する山根麻衣子さん(43)。出身地の横浜市から6年前に移住し、ウェブ媒体を中心に情報発信する。移住者としての自らの葛藤も率直につづる記事にひかれた。
浜通りは福島県沿岸部の総称で、原発事故に見舞われ、津波被害も大きかった地域と重なる。取材対象はこの地で前向きに生きようとする人たちだ。「震災で傷ついていない人などここにはいない。原発問題や風評被害から目をそらすこともできない。だからこそ普通に暮らしている姿を伝えたい。外から見た魅力を発信することで、浜通りに興味を持つ人が増えてほしい」
双葉町の復興支援員としていわき市に移り住んだ当初は、気負いが空回りし、苦しい時期が続いた。支えになったのは「ここに居ることを選んでくれて、ありがとう」という地元の人の言葉だったという。
移住者の活動を取り上げる機会も多い。住民の帰還が進まない一方で解決すべき地域の課題は山積し、外からの発想や新たな担い手が切実に求められる実情を映し出す。
近海で取れた魚の加工販売所兼交流スペース「おさかなひろば はま水」(いわき市久之浜)を始めた女性の取材に同行した。
福島県沖は原発事故の影響で海域と魚種を絞った試験操業が続く。青森県八戸市出身の榊裕美さん(27)は大学時代のボランティア活動をきっかけに3年前、いわきに移住し、久之浜を拠点に漁業復活とコミュニティー再生に取り組んでいる。
山根さんの記事や新聞、テレビで地元漁師を巻き込んだ奮闘ぶりが紹介され、店内は県内外からの客でにぎわっていた。漁師の妻たちに手助けされながら接客に追われる榊さんを山根さんは笑顔で見守る。
「人と地域が変わっていく過程を間近で見られるのがうれしい。世間の“熱”が去っても、伝え続けるのが私の役目だと思う」
自分の住む町を元気にしたい。若者の挑戦を応援したい。声高に「復興」や「支援」を叫ばなくても、思いを共有し、自分に何ができるかを考え始めるところから地域の未来はひらけるのだと感じた。
最後に、山根さんから「この人にぜひ会ってほしい」と紹介された山根光保子さん(37)の話をしたい。双葉町のまちづくり会社「ふたばプロジェクト」職員として、全国に散った町民たちに双葉の今を伝える情報誌の編集を担当している。
9年前、双葉町の自宅を追われ、避難生活で県内外を転々とする間に母は体調を崩して亡くなった。町の復興支援員として働いていた時の同僚と結婚。2人の娘の母となり、いわき市内の復興住宅で暮らす-。激動の日々を淡々と振り返った後、「帰れる時が来たら帰りたい。そう思っています」と話してくれた。
誰かが帰らなければ町はなくなってしまう。夫も賛成してくれる。だが、それを口にしにくい雰囲気もあるという。見えない放射能の不安は消えず、学校や病院がいつ整うのかも分からない。気づけば、今の暮らしになじんだ自分もいる。周囲に「子どものことを最優先に考えて」と忠告されると心は揺れる。
昨年の町の意向調査で「戻りたい」は10・5%、「戻らない」は63・8%、「まだ判断がつかない」が24・4%だった。全国のどこかで同じように悩んでいる町民がいる。そのよりどころになれば、と変わる町の姿を追い、離れていても古里を思う人を探し、情報誌で紹介している。
「帰れない場所になって古里を見直した。『帰りたい』という思いを自然に語れる環境をつくりたい」
どれが正解か、ではない。必要なのは本人の選択を尊重し、正解になるように支える仕組みだ。それは今も十分とはいえない。
【2011 3.11 東京電力福島第1原発事故】東日本大震災で津波に見舞われた福島第1原発は電源を失い、核燃料を冷やせなくなった。12日午後に1号機で水素爆発が起き、政府は原発周辺の福島県内11市町村にまたがる区域に避難指示を出した。現在、第1原発が立地する双葉町全域と大熊町の一部などに「帰還困難区域」が残る。全町避難が続く双葉町を除く10市町村で、住民票を置いて実際に居住する人は約28%。今も4万人超が県内外で避難生活を送る。
2020/3/5