1991年6月3日、ニュースで見た大火砕流の映像は衝撃的だった。噴煙が空を覆い、集落から炎が上がる。病院に運ばれてくるのは大やけどを負った人たちだ。死者・行方不明者43人、建物被害179棟。長崎県島原半島の被災地は、その後も続く火砕流や土石流の被害を経て、国内の遺構保存の先駆けとされる場所になった。惨事を招いた大火砕流から30年。雲仙・普賢岳の麓、島原市と南島原市を訪問した。(奥原大樹)
■「すさまじさ実感」地元が整備主導
焦げた鉄筋コンクリートの壁にガラスが吹き飛びゆがんだ窓枠、焼き尽くされた教室内…。かつて子どもたちの歓声が響いていたことが信じられない光景が目の前にあった。
南島原市深江町の山裾にある遺構「旧大野木場(おおのこば)小学校被災校舎」だ。91年9月15日に発生した火砕流に伴う熱風で、付近の多くの民家などとともに全焼した。
「思い出の詰まった地域のシンボル。住民に大きな衝撃が走った」
卒業生で当時PTAの会長だった社会福祉法人理事長、本田龍一さん(70)が振り返る。
追い打ちを掛けたのが当初の復興計画だ。小学校の敷地は新設される砂防ダムの端に当たり、被災校舎の撤去は避けられなかった。それを救ったのが住民の「残したい」との思いである。
地元自治会は被災の翌々年、1078人分の署名とともに、保存の要望書を提出する。行政側はこうした声を踏まえ計画変更に踏み切った。
99年から一般公開され、噴火災害のすさまじさを伝えてきた。「後世の人が災害を実感できる。校舎を引き継いでいくのが私たちの務め」と本田さんが力を込めた。
91年は火砕流が相次ぎ、翌年8月には山腹に積もった火山灰などが大雨で崩れ、同じ深江町で大規模な土石流が発生した。被害を受けた下流部の50世帯ほどの集落跡は、遺構「土石流被災家屋保存公園」となっている。住宅再建を断念した住民の要望で県が買い上げ、隣接する道の駅とともに99年にオープンした。
公園内のテントの中に被災家屋が3棟、屋外に8棟。土砂の中に深く埋まった家々を見て息をのむ。
道の駅の運営会社の役員を務める川田喜伝治(きでんじ)さん(66)は集落にあった自宅を土石流で失い、3年半ほど家族6人で避難所や仮設住宅を転々とした。「県から保存の提案があったとき、住民は『家が見せ物になるのでは』という葛藤を抱いた。だが生活再建のために受け入れた。今では観光客がよく保存したと言ってくれる。残してよかった」
遺構とともに災害の記憶を未来へとつなぐ決意がにじんだ。
■重い教訓残す「定点」
事前の避難で人的被害がなかった被災校舎や被災家屋が比較的早期に保存できた一方で、この春ようやく整備できた遺構もある。島原市上木場地区内の取材撮影ポイントだった「定点」である。
周辺では、避難勧告を無視して取材を続けた報道関係者16人と同行のタクシー運転手4人のほか、警戒活動に当たっていた消防団員12人や警察官2人らが犠牲になった。取材の在り方が問われ、メディアに重い教訓を残した。
一帯は現在も砂防指定地で、立ち入りが制限されている。特別に許可を得て、雲仙岳災害記念館(島原市平成町)の杉本伸一館長(71)や地元町内会でつくる連絡協議会の阿南達也会長(83)の案内で現地に入った。まず、市が設置した三角すいのモニュメント前で手を合わせる。
敷地では、今年2月に火山灰などから掘り出された取材車両1台と、報道陣がチャーターしたタクシー2台がコンクリートの台座に据えられている。さび落ちて原形をとどめない車体が時間の経過を物語る。
実際に定点に立つと、溶岩ドームがある山頂部の近さに驚く。惨事を知っていることもあるのだろうが、絶好の撮影地点が同時に逃げ場のない危険な場所になる恐怖を覚えた。
地元では、報道関係者が定点にいなければ消防団員らが犠牲になることはなかったとの批判が絶えなかったという。大火砕流に巻き込まれた消防団員の詰め所建物付近は、2003年に「農業研修所跡」として遺構化された。だが同じ地区の定点は住民感情もあり、手つかずだった。
今回、整備を手掛けたのが地元町内会の連絡協議会で、費用は県内の報道各社などが負担した。阿南会長は「放置したままでは風化してしまう。地域として30年前の出来事を継承する場にしたい」と語る。
今も割り切れない思いを抱える遺族もいると聞く。ここで起きたことを絶対に忘れず、語り継ぐことが重要だ。自戒を込めながら、これまでの歳月をかみしめた。
■伝える住民の支援を
普賢岳は噴火を繰り返してきた。江戸時代の1792年には近くの山の一部が有明海に崩れ落ち、対岸の熊本側にも大津波が押し寄せ、約1万5千人が犠牲になった。「島原大変肥後迷惑」の言葉が今に伝わる。
島原半島には、このときの犠牲者を弔う慰霊碑などが50基ほど残るという。その一つで島原市田町の海岸沿いにある供養塔を訪れた。2メートル近い塔の足元には花がある。大切に守られていることがうかがえた。
被災地では、平成の噴火災害の風化を防ぐ地道な取り組みが行われている。島原市は6月3日を「いのりの日」と定め、毎年さまざまな関連行事を催す。小学生と保護者を対象とした防災塾も続く。島原、南島原両市は今年5月、初の合同避難訓練を行った。
災害記念館は次世代の語り部として、この夏にも高校生の語り部ボランティアを募集する。現在の語り部ボランティア10人のうち、最年少の長門亜矢さん(38)は「若い世代にはバトンを途切れさせずつないでいってもらいたい」と話す。
語り継ぐ大切さとともに、「物言わぬ証人」の存在感、発信力はやはり大きい。50年、100年と時を経るごとに、遺構の持つ重みは増していくだろう。
島原市役所で面会した古川隆三郎市長(65)は「マスコミが自戒を込めた定点は、教訓を継承する意義がある。農業研修所跡は、消防団員を務めた住民の犠牲を伝える重い位置付けにある。それぞれの意味を踏まえながら後世に残していきたい」と述べた。
どんな形であれ、地域による維持管理を支えてもらいたい。
全国を見渡すと、遺構を巡る意見が対立し、保存が進まない被災地は少なくない。阪神・淡路大震災では復興を急ぐ余り、遺構をほとんど残せなかった。東日本大震災では整備が進む一方、遺族感情も絡み、痕跡を残す建物などが姿を消している。
では、なぜ普賢岳の麓では残せているのか。杉本館長は「保存で大事なのは住民の意思。ここでは住民主体で行われてきた」と指摘する。
例えば農業研修所跡では建物の基礎や被災消防車両を保存しており、この整備も地元が主導した。大きな役割を果たしているのが町内会などの地域コミュニティーだという。被災地に限らず全国各地でその弱体化が指摘されているが、島原半島ではしっかりと維持され、議論や合意形成の場として機能している。そのことは今回の取材でも実感した。
災害の脅威をリアルに伝え、犠牲者を1人でも減らす。遺構を残す意味を住民が共有できるかが重要だ。その過程はコミュニティーの維持、再生にもつながるのではないか。被災地に蓄積された経験を共有し、住民主体の保存を後押しする国や自治体の仕組みづくりが急がれる。
平成最初の大災害から復興の歩みを進め、「災害対応の原点」として評価される普賢岳の被災地。私たちが学ぶべきことはまだまだ多いと言えそうだ。
【1990・11~96・6 雲仙・普賢岳の噴火災害】 1990年11月に198年ぶりに噴火、96年6月3日の終息宣言までに火砕流が9432回発生し、計44人が犠牲になった。土石流も62回起きた。避難者数は最大1万1千人超、被災家屋計約2500戸。長期化した噴火は火山防災の転機となり、災害ボランティア、画期的な被災者支援策などを生んだ。山頂に形成された推計1億立方メートルの溶岩ドームは崩壊の危険があるとされ、火口周辺は今なお警戒区域となっている。
2021/7/28