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移転先の自宅から、土砂崩れで被災した地区(奥)を望む山内博史さん=熊本県南阿蘇村立野 明治40年創業の老舗「ニコニコ饅頭」。4代目の高瀬大輔さん(右)が、両親と作り続ける=熊本県南阿蘇村立野 擁壁整備や道路拡幅など復旧事業の完了を喜ぶ元区長の坂田哲也さん(左)。佐々木康彦さんは新潟県中越地震の教訓を伝え、復興を支えた=熊本県西原村 山腹崩壊で寸断された国道57号。川には阿蘇大橋が架かっていた=2016年4月18日、熊本県南阿蘇村 神戸新聞NEXT
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移転先の自宅から、土砂崩れで被災した地区(奥)を望む山内博史さん=熊本県南阿蘇村立野

明治40年創業の老舗「ニコニコ饅頭」。4代目の高瀬大輔さん(右)が、両親と作り続ける=熊本県南阿蘇村立野

擁壁整備や道路拡幅など復旧事業の完了を喜ぶ元区長の坂田哲也さん(左)。佐々木康彦さんは新潟県中越地震の教訓を伝え、復興を支えた=熊本県西原村

山腹崩壊で寸断された国道57号。川には阿蘇大橋が架かっていた=2016年4月18日、熊本県南阿蘇村

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  • 明治40年創業の老舗「ニコニコ饅頭」。4代目の高瀬大輔さん(右)が、両親と作り続ける=熊本県南阿蘇村立野
  • 擁壁整備や道路拡幅など復旧事業の完了を喜ぶ元区長の坂田哲也さん(左)。佐々木康彦さんは新潟県中越地震の教訓を伝え、復興を支えた=熊本県西原村
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明治40年創業の老舗「ニコニコ饅頭」。4代目の高瀬大輔さん(右)が、両親と作り続ける=熊本県南阿蘇村立野

擁壁整備や道路拡幅など復旧事業の完了を喜ぶ元区長の坂田哲也さん(左)。佐々木康彦さんは新潟県中越地震の教訓を伝え、復興を支えた=熊本県西原村

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 震度7の激しい揺れが2度続いた熊本地震の発生から5年がたった。深い傷を負った被災地は道路や鉄道の復旧が着実に進み、地震前の姿を取り戻しつつある。熊本城天守閣も再建工事が完成した。一方で、集落への帰還者が頭打ちになるなど、山間部の人口流出は深刻だ。復興への光明と厳しい現実が交錯する現地を訪ねた。(長沼隆之)

 むき出しの岩肌に大地震の爪痕を感じる。傷口をふさぐように、あちらこちらに施された治山工事のコンクリートが、なんとも痛々しい。

 熊本県南阿蘇村立野地区に三つある集落の一つ、新所(しんしょ)区。5年前の本震が、寝静まる小さな集落に突如、襲いかかった。九州電力の発電用貯水槽が壊れ、大量の水とともに土砂が流れ込んだ。9世帯が全半壊し、60代夫婦が帰らぬ人となった。

 区長の山内博史さん(67)も巻き込まれた。「あの2人はとても仲が良かったんよ」。犠牲になった隣家の夫婦を悼むため、毎月16日には跡地を訪ね、手を合わせてきた。

 立野地区には約360世帯が暮らしていた。地震後、斜面崩落の危険から、県が「長期避難世帯」に認定し、住民は地区外への避難を強いられた。1年半後に解除されたが、戻ったのは約200世帯にとどまる。新所区も83世帯のうち残ったのは57世帯だ。点在する更地が、集落の再生にはなお遠い現実を物語る。

 山内さんは隣の大津町(おおづまち)の「みなし仮設」のアパートで暮らしながら、九電側との賠償交渉を1年半以上続けた。その間も、住民の世話に力を尽くした。「ここに帰りたい」。新所に戻るたび、思いが募った。結局、被災した土地を九電が買い取り、補償する提案を受け入れた。

 「先祖代々の土地に戻りたいのは当たり前ばってん、生活再建を遅らせるわけにはいかんかった」。山内さんは悔しげに唇をかむ。

 一昨年11月、約1キロ南西に自宅を再建した。棟上げ式には地区の人たちを招き、餅まきもした。「心を残しながら村を離れた人もおる。みんなには元気でいてほしか」

 隣人の命、住み慣れた土地と家、地域の絆…。地震で失ったものはあまりにも大きい。人のつながりを支えに、前に進んできた日々。

 「悔しさを胸にとどめ、より安心して暮らせる地域にせにゃならん。ここがよかですから」

 山腹にある新所区を望みながら、山内さんの言葉をかみしめた。

■交流人口増加に期待

 今年3月に開通した新阿蘇大橋に足を運んだ。本震で崩落した阿蘇大橋に代わり、約600メートル下流に架けられた。熊本市街と阿蘇地方の南側を結ぶ大動脈だ。橋のたもとにできた展望所は、平日の午前中でも、52台分の駐車場は満車だった。

 旧橋は、橋桁の一部が「あの日」から峡谷に垂れ下がったままだ。旧橋や国道57号、JR豊肥線をのみ込んだ山腹崩壊の復旧斜面など、一帯には息をのむ光景が広がる。

 被災したJR豊肥線はこの付近で急勾配を走るため、列車を2度方向転換させるスイッチバックがある。沿線の観光名所でもあった。

 その途中にあるのが立野駅だ。進入してきた列車が反対方向に折り返す。駅舎もない小駅で、今も不通となっている南阿蘇鉄道が分岐する。

 人通りの少ない駅前にぽつんと立つ1907(明治40)年創業の老舗「ニコニコ饅頭(まんじゅう)」を訪ねた。

 4代目の高瀬大輔さん(48)が迎えてくれた。毎日早朝から両親と3人で饅頭を作り始める。甘酒風味の生地に手作業で餡(あん)を包み、専用の蒸し器で蒸す。温かいうちに8個ずつ経木で素早く包んでいく。

 地震後は苦難続きだった。生地や餡を作る機械が倒れ、断水にも見舞われた。1カ月後に何とか再開したが、立野地区が長期避難世帯に認定され、住民がいなくなった。観光客も途絶え、併設する食堂と土産物店は休業に追い込まれた。

 大輔さんは廃業も覚悟した。支えになったのは「饅頭を食べたい」という常連客らの言葉だった。イベントのほか、熊本市や益城町(ましきまち)のスーパーに販路を積極的に広げていった。

 父の忠幸さん(84)は長期避難の解除後、半壊の自宅に真っ先に戻った。「帰郷した者が踏ん張って、にぎわいを取り戻さんといかん」と、大輔さんらを鼓舞してきた。

 ただ、村の大半の世帯が住宅再建を果たし、子育て世代の多くは隣の大津町に移った。地区への新たな帰還者は見込みにくい状況にある。

 そんな中、交流人口の増加に期待を寄せる。大輔さんが会長を2年務めた「立野わかもん会」は歩いて楽しむツアーなどを企画し、地域の魅力発信に努めてきた。今はコロナ禍で活動を控えるが、新阿蘇大橋や再建した住宅の見学も好評だった。

 「踏ん張った先には喜びがある。変わらぬ味でお客さんを迎え入れたい」と大輔さん。饅頭の名の通り、顔をほころばせた。

■地域の強みを生かす

 新緑や田畑を眺めながら車を走らせると、真新しいコンクリートの擁壁が視界に入ってくる。ぐるりと宅地を取り囲み、段々畑のように連なる場所もある。

 熊本県西原村の大切畑(おおぎりはた)地区。地震で壊滅的な被害を受けた集落が、生まれ変わった姿だ。

 家屋の9割近くが全壊したが、住民同士が助け合い、一人の犠牲者も出さなかった。地震後は住民の大半が仮設住宅に移り、斜面に並んだ家屋は次々と解体された。

 一時は、集団移転の話が持ち上がった。移転か、残留か。葛藤を抱える住民は分裂状態になったが、粘り強く話し合いを重ね、最終的には現地再建を選んだ。約1年後、宅地の地盤強化や擁壁整備、道路拡幅などを盛り込んだ復興まちづくり計画を村に提出。国の補助などを受けての「集落再生事業」が決まった。

 地震から5年がたった今月18日。完工式があり、住民らが祝った。地区に残った世帯は被災前の半数ほどだが、移転しても自宅跡に小屋を建て、残した田畑に通う人が多いそうだ。消防団に籍を残し、草刈りなど地区の作業を手伝う人もいる。

 「意見をぶつけ合ったから今がある。ずっと住まんといかんけん、結びつきをもっと強くせんと。正月やお盆の行事も続けたい」。区長を務めた坂田哲也さん(64)が、3月に完成した新しい公民館「みんなの家」の前で、相好を崩した。

 傍らに、NPO法人「故郷復興熊本研究所」理事長の佐々木康彦さん(42)がいた。佐々木さんは、新潟県中越地震で被災した旧山古志村の集落再生に携わった経験を買われ、西原村に移り住んで住民同士や行政との合意形成を支えてきた。

 「住んでいる人たちが方向性を決めることが、何より大切」。中越地震の被災地で得た教訓だ。役場の聞き取りの場には、家族全員で来てもらい、復興への方針を共有した。

 佐々木さんは振り返った。「小さな集落だが、まとまりは一番。元々のコミュニティーの強さを生かした進め方ができたと思う」

 集落を維持するには多くの住民が戻ることが最良なのは言うまでもない。ただ、個々の復興の歩みは一様ではない。心の傷も完全には癒えてはいないだろう。それでも、先人から守り継がれてきた美しい土地と暮らす人々には豊かな助け合いの心が育まれている。そのぬくもりや心強さが、地域を結び直す力となる。

【2016 4.14、16 熊本地震】 熊本県熊本地方を震源に、14日夜にマグニチュード(M)6.5の「前震」が、16日未明にM7.3の「本震」が起きた。益城町(ましきまち)では観測史上初めて震度7を2度記録した。熊本、大分両県で計276人が犠牲になり、うち災害関連死は8割に当たる計221人を占める。約18万人が一時避難し、住宅約4万3千棟が全半壊した。阿蘇地方では本震で土砂崩れが多発し、国道57号や阿蘇大橋、JR豊肥線が寸断されたが、今年3月までに復旧した。

2021/4/28
 

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