「いろいろなことを忘れていくのに、あの日のことは本当によく覚えている」
76年前の下滝野空襲を語るとき、体験者たちはそう口をそろえる。当時、まだ10歳にもなっていない子どもたちの心に、空襲は深い傷を刻んだ。
当時下滝野(兵庫県加東市)に住んでいた田中靖雄さん(85)も、あの日の出来事を鮮明に記憶している。
7月24日の昼、家族で昼ご飯を食べようとしていた。箸を取ろうとしたとき、飛行機の「バリバリバリ」という爆音が聞こえた。
直後、爆弾が落ちた。衝撃が周囲を揺るがす。自分と家族は無事だったが、家の天窓が音を立てて破れ、その威力の大きさに恐怖を覚えたという。
近所の田中妙子さん(86)も、靖雄さんの証言にうなずく。妙子さん宅でも、かまどで麦飯を炊き上げたところだった。「白米に麦を混ぜてたの。麦の方が多かったけど」
釜から麦飯をおひつに移し替えた瞬間、爆音と共に破片が屋根を直撃した。ほこりや破片が貴重な食料に降り注いで、台無しになった。
空襲後、周辺には爆弾の破片が散乱していた。「道端にも、家にも、とんでもない量の破片が転がっていた。バケツいっぱいに拾い集められるぐらい」と、靖雄さんは振り返る。
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2人とも、犠牲者の一人、田中とみゑさん=当時(52)=の遺体を記憶している。どす黒い血だまりと、遺体が寝かされていたむしろ。空襲後の混乱が、頭から離れない。
この以前にも、米軍の艦載機は北播磨上空を飛び回っていた。それでも、空襲はどこか人ごとだった。
ラジオから「敵編隊が潮岬(和歌山県)を北上中」と情報を聞いたこともあった。空襲警報のサイレンも、何度耳にしたか分からない。しかし、被害を目の当たりにしたのは、7月24日が初めてだった。
「神戸や明石が空襲されてね、南の夜空が真っ赤になったのは見ていたけど…」と靖雄さん。「自分が住んでいる場所が攻撃されるとは思わなかった」
妙子さんは、下滝野空襲の衝撃をこう表現した。
「まさか、下滝野がやられるなんて。こんな田舎でも、関係なく空襲を受ける。どこか遠い出来事だった戦争を身近に感じ、恐ろしく感じました」(杉山雅崇)
■知られざる空襲・第2部(2)たんすの傷跡 昭和20年7月24日【加東・下滝野】
■知られざる空襲・第2部(1)体験者の証言 昭和20年7月24日【加東・下滝野】