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1964年の東京パラリンピック第2部で競泳自由形に出場した田中環さん=神戸市中央区坂口通2、兵庫県福祉センター
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1964年の東京パラリンピック第2部で競泳自由形に出場した田中環さん=神戸市中央区坂口通2、兵庫県福祉センター
田中さんが保管する競泳自由形の銅メダル。冊子は大会報告書=神戸市中央区坂口通2、兵庫県福祉センター
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田中さんが保管する競泳自由形の銅メダル。冊子は大会報告書=神戸市中央区坂口通2、兵庫県福祉センター

 新型コロナウイルス感染拡大による延期を経て、来年8月24日に開幕する東京パラリンピック。1964年以来の日本開催だが、実はその時の祭典には「第2部」が存在していた。国内選手を中心とした大会で、兵庫からは18人が挑戦。本大会に兵庫勢は出ておらず、彼らは当時の「東京」を知る貴重な存在でもある。その一人で、競泳自由形に出場した視覚障害者の田中環(たまき)さん(77)=兵庫県姫路市=は「記憶の色? ばら色や」と目尻を下げる。(有島弘記)

     ◇     ◇

 56年前の11月13日午後7時すぎ、東京体育館の屋内水泳場。当時21歳の田中さんは、競泳男子45メートル自由形のスタート台に立った。

 先天性の視神経萎縮で視力は0・03。観客一人一人の顔ははっきり見えないが、興奮が伝わってきた。

 「プールいっぱいの人。段々の客席から『ウオー』と声が降ってきたからね」

 これで舞い上がった。五輪でも使われた大会場。しかも人生初の室内プール。気が焦った結果、フライングしてしまった。

 「(係員に)怒られてね。2回目の『ドン!』と鳴った時分には、みんな先を行っていた。どないして泳いだのか。息を継いだのかも分からない」

 50メートルプールの壁に激突しないよう、45メートル地点に立つ係員に背中をたたかれると、そこがゴールだった。幼少期から実家近くの市川で遊び、泳ぎには自信があったが、タイムは優勝者から約8秒遅れの34秒2。公式記録は4着だった。

 だが、何と田中さんの手元には銅メダルが残っている。「表彰台に上がった? そう思うけどね…」。フライングが影響し、記憶がぼやけている。記者が日本障がい者スポーツ協会に確認したが、メダル“獲得”の理由は定かではない。

 レースは不完全燃焼だったが、未知の体験が思い出を鮮やかに彩っている。

 開通したばかりの東海道新幹線。200キロ超の速さだけでなく、自動で開閉するドアに驚いた。東京駅に着くと、選手村までバスをパトカーが先導してくれた。開会式では当時皇太子だった上皇ご夫妻と対面し、国を挙げた祭典だと実感したという。

 大会後は競技から退き、兵庫県立盲学校(現・県立視覚特別支援学校)で覚えたマッサージの仕事に専念。姫路駅近くの繁華街を拠点に、77歳の今も現役だ。「スポーツで付けた体力はやっぱり違うね」と胸を張る田中さん。約10年前に全盲となったが、県視覚障害者福祉協会の会長として仲間のためにも働く。

 来夏の東京パラリンピックはコロナ禍に揺れる。田中さんは自身の大会前を思い返し、「選手はしたいよね。そのためにずっと練習してきたんやから。やってあげてほしいね」。状況の好転を願っている。

【1964年の東京パラリンピック第2部】アジア初開催のパラリンピック閉幕直後、国内大会として1964年11月13、14日に開かれた。46都道府県と返還前の沖縄から選手475人が出場。兵庫代表は18人で、西ドイツ(当時)の選手も特別参加した。本大会よりも障害の対象を広げた各種目の競技は、陸上や競泳など計34種目。翌年から始まる全国身体障害者スポーツ大会(現・全国障害者スポーツ大会)の創設につながった。

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