中国東北部の旧満州と内蒙古は戦前、「日本の生命線」と呼ばれた。貧困にあえぐ国内の農村救済と旧ソ連からの防衛などを掲げ、国策として農業移民が進められた結果、全国から約27万人が海を渡った。終戦直前の1945(昭和20)年8月9日、旧ソ連軍が侵攻。過酷な逃避行の中で数々の悲劇が起きる。その一つが、但馬から入植した高橋村(豊岡市但東町)開拓団の集団自決である。大人、子ども合わせて298人が、ホラン河に身を投じて亡くなった。シリーズ「戦争と人間」第6部は、悲劇から生き残った石坪馨(かおる)さん(85)と山下幸雄さん(81)の語りを届ける。(森 信弘、若林幹夫)
高橋村の開拓団は、正式には「第13次大兵庫開拓団」という。入植先は旧満州国の浜江省蘭西県北安村。逃避行が始まったとき、団員を守るはずの陸軍関東軍の姿はなかった。8月17日、疲労と絶望の中で開拓団は自決に追い込まれる。山下さんは当時12歳だった。
「ホラン河は増水してよどんでましたが、静かでした。兄と背中合わせになって、父にゲートルで足首、胴体、腕をくくってもらって丘の先に立ちました。兄と一緒に『天皇陛下、ばんざーい』と叫ぶと、おやじがドーンと力いっぱい背中を押してくれました」
「鼻から口からいっぺんに水を吸って、兄と背中合わせですからごろごろ、ごろごろと水中で回る。気が付けば柳の木にしがみついていて、そばに泡を吹いて意識を失った兄がいた。一緒に飛び込んだ両親と妹、弟の姿は見えなくなっとりました。私はもういっぺん水の中にはめてもらおうと、お父ちゃん、お母ちゃんと叫んで、右行き左行きしとった」
「後で現地の中国人が止めに入りましたが、子どもを手に掛けた親たちは入水を続けとりました。地獄とはこのことなんだろうと思いました。怖さは感じません。こちらも死にたかったから。けど頭から消えることない。目の先にちらついて、忘れられんもんだで」
一方、満州で父親が病死した石坪さんは、母親と弟3人と一緒だった。当時16歳。家族で死ぬ覚悟を固めていると、開拓団のリーダーに呼ばれた。
「私を含む15、16歳の者5人に向かって『生き残ってこの惨事を高橋村に報告せえ』と言うんです。日本まで帰れなんでも、ハルビンまででもいいから逃げろ。日本人に出会えれば、誰かの口から古里に伝わるだろうと」
そして、目の前で開拓団の集団自決が始まった。
「今でも話そうとすると、やっぱり涙がこみ上げてきますな。きょうだいや夫婦でひもや包帯を使って、背中合わせにぐるぐる巻きにしたり、手や足をくくったりして、われ先にと入ったんです。子どもの顔を水につける人もいた。私の母は5歳の弟をおぶって飛び込んだと聞きました」
「川下の方へ700メートル、800メートルと離れても、『わあわあ』いう声が聞こえとりました。断末魔の声が混ざっとりますでね。ものすごい声でした。いまだに耳についとって、忘れられませんな」
2015/2/15