1944(昭和19)年3月21日、高橋村(豊岡市但東町)の開拓団本隊が旧満州へ向けて出発する日を迎えた。石坪馨(かおる)さん(86)は両親と3人の弟とともに、この日を迎えた。
「とにかく満州は寒いところやそうなので、おじいさん、おばあさんと、病弱なおばを残しとくことになりました。2、3年たって向こうでやっていける、大丈夫だとなったら呼ぶということでね」
「国策に散った開拓団の夢」(但東町教育委員会発行)によると、開拓団は全体で103戸、476人だった。
「出発は朝で、集落ごとに残る人や親戚が見送っておりました。もう一生会えんだろうというぐらい涙、涙の別れです。うちは、おばあさんは涙をふいとったと思います。おじいさんは、満州行きが決まってから、よくおやじに『お前が農会長なんてしとるさけえだ』と怒っとったけど、その日は『元気で行って来いよ』くらいなことで、口をへの字につぐんで辛抱しとるようでした」
開拓団はトラックで国鉄豊岡駅に向かい、列車で丸1日かけて下関へ。翌日、船で韓国・釜山に渡った。国民学校の児童だった山下幸雄さん(81)は、最後まで満州行きに反対し、1人で高橋村に残った祖父との別れを思い出していた。
「私は特別におじいちゃん子でしたから、よう田んぼでも山でも一緒に付いていった。別れの時、じいさんの手を握って『頼むで、元気でおってよ』と言いました。じいさんは、なぜかにこにこしてました。複雑な気持ちだったと思います。日本に帰ってくることは考えていなかったですね。向こうで農業をして、どんどん食料を日本に送るんだと思っとりました」
「船に乗ったら救命胴衣を背負わされて。敵の潜水艦が来ただとか、機械水雷がどうだとか言って、あっち逃げこっち逃げしとるのか、韓国までえらい時間がかかりました。日本は戦争に勝っとると聞かされてましたので、こんなとこまでアメリカが来とるのか、大本営はうそを付いとるのかと、子どもながらに思いました。もちろん、絶対に口に出しては言えませんが」
(森 信弘、若林幹夫)
2015/2/18