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旧満州へ渡る直前の石坪馨さん(1944年1月ごろ撮影)
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旧満州へ渡る直前の石坪馨さん(1944年1月ごろ撮影)

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 満蒙開拓団は日本のかいらい国家、旧満州国が成立した1932(昭和7)年に始まる。そして36年、二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣によって「国策」に位置づけられた。43年2月、高橋村(豊岡市但東町)がある出石郡も開拓団を送ることが決まる。石坪馨(かおる)さん(85)が当時を振り返る。

 「私は学校を卒業して尼崎の工場で働いてましたが、体を壊してその年の8月になる前に、静養で高橋村に帰郷しとったんです。開拓団いうても、みんな住み慣れた所を離れたくないし、満州は寒くて恐ろしいと思われてました。それに、どうも日本が戦争で不利になってきたと聞いたりして、日本が負けたら満州はどうなるんだ、という不安がありましたわ」

 出石郡の村のうち、三つの村が開拓団を組織する候補に残った。

 「結局、高橋村のほかはよう行かんとなって。うちの村は1戸平均の田畑の面積が一番狭かったし、1戸あたり千円くらいの借金があったそうですわ。普通の家が建てられるくらいの額ですわね。広い満州で農業をやってやろうという人もおった。兵庫県にも厳しく言われ、高橋村だけで行くことになったんですな」

 「国策に散った開拓団の夢」(但東町教育委員会発行)によると、移民の選出母体となったのは村の「農会」だった。高橋村開拓団の戸数目標は200戸。40年の国勢調査によれば、村の所帯数は537だった。

 「誰を満州に行かせるかというたら、いや応なしに集落ごとの戸数の割り当てですわ。稲刈りの後の脱穀で忙しい時期でしたけど、各集落で毎夜寄って、遅くまで集会をしとりました」

 「うちのおやじは、集落の農会長をしとって、移住を進める立場だったんです。私はおやじが、自分が行くと言わなええがなと心配しとりました。じいさんとばあさんがもう80前でしたから。でも結局、気が弱いから、他人に行ってくれとは言えんでね。おやじは『私も行くからあんたも行ってくれ』と言うたんですわ。後で『役目上、仕方ないから行くで』と言われました」(森 信弘)

2015/2/16
 

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