暴徒に追われた高橋村(豊岡市但東町)の開拓団員たちは、避難先の蘭西県城を離れた。そして食料を求めて逃げるうちに、入植地の一角にある集落「双合屯(そうごうとん)」にたどり着く。1945年8月17日未明のことだ。山下幸雄さん(81)は現地人の屯長らから、粟(あわ)飯と豚汁が振る舞われたことを覚えている。
「神さんみたいにありがたかった。粟飯はきらいなもんだったけどおいしかったというか、今まで食べたことのない味でしたね。ただ助かるとは思いませんでした。鎌持った暴徒が集まってきとりましたでな。逃げられるはずがない」
逃避行を指揮していた開拓団幹部が記した「国策に散った開拓団の夢」(但東町教育委員会発行)掲載の手記によると、この日午前7時ごろ、追ってきた暴徒が集落に流れ込み、屯長から「これ以上、休んでもらうことはできない」と告げられた。年寄りや女性、子どもが中心の開拓団に、もう抵抗する力は残っていなかった。
「死ぬ方法はないかと屯長さんに相談したんだと思います。そしたら、500メートル先に水がきとると。じゃあそこで死ぬしかない。どうしても助かりたい人はなんとか逃げたらええ。『どうする』とおやじが聞くと、兄貴らが死にたいと言うもんでね。もう疲れきっとって、うちは死ぬことに決めました。案外落ち着いてましたで。よし死ぬ場所が決まった、やれやれ、これで死ねると」
「それでも河が増水しとる場所まで、暴徒が鎌持ってるところを脱出せなあかん。頭に白い布をまいて『わーっ』と大きな声出して、衣類も持ち物も投げて、暴徒がそれを拾っとる間に走りました。幸いみんな到着することができました。ちょうど丘の上です。向こう岸が見えないほどの大水になっておりました」
到着すると、団員たちは親類ごとに集まった。山下さんのところでは、おじがお経をあげ始めた。
「おじは12人家族です。その全員を処置しなければならんという目前においてですね、にこやかな笑顔でしたね。『苦しいのは1分だけだ。阿弥陀(あみだ)さんのとこにいける。ありがたい』と。なんとも立派だと思った。そしたらお経に合わせて、他の人たちがあちこちから寄ってきました」(若林幹夫)
2015/2/24