宝塚市の今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)が最前線で戦っていたころ、神戸市垂水区の細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)もビルマ(現ミャンマー)にいた。1919(大正8)年、現在の香川県坂出市で生まれ、栃木県にあった高等農林学校を卒業。41(昭和16)年4月に徴兵検査を受けていた。
「背が百五十何センチで低いでしょ。眼鏡も掛けてたから、(5段階のうち2番目の)乙種合格。でも、(一番上の)甲種合格で行こうと思ってないから、残念とか思わんかったね。別に軍隊に行きたくないから。その時は農林省の広島営林署に勤めていてね。木を植える計画を立てたり、道路の設計図を画いて発注したりしとった。せっかく仕事があるんだから、やりたかったですよ」
だが1年後の42(昭和17)年4月、細谷さんにも召集令状が届く。香川県丸亀市の陸軍歩兵連隊に入隊。ビルマ行きが決まり、43(同18)年9月には、門司港(北九州市)から出港した。この時、所属は歩兵連隊から第55師団の衛生隊担架中隊に変わっている。負傷兵を運ぶ任務だった。
「門司を出る時は、もう生きて帰れるか分からん、と諦めたね。戦争なんだから。嫌だとか何とか言うても、仕方ないでしょ。お国のためなら仕方がない、と自分を納得させてました」
「子どものころ、母親が父親と離婚しちゃってね。弟が1人おったんですが、腸チフスで亡くなってました。母親は、私のために通行人の女性たちに頼んで千人針を作って渡してくれたんです。一人息子が戦争に行くんやから寂しかったやろね」
細谷さんは44(昭和19)年の正月をラングーン(現ヤンゴン)で迎える。翌2月。第55師団などは、ビルマ西部の要衝アキャブを拠点に、インドとの国境にいた連合軍へ攻撃を開始。その北側でインドへ攻め込む「インパール作戦」が3月の開始に向けて準備されており、陽動作戦としての狙いがあった。
「アキャブの南のタンガップから、北のミョーホンに向かって歩いている時やったと思う。私らはね、荷物を載せた荷車に5、6人が付いて歩くんです。敵の飛行機に見つからんように、昼は隠れて夜になったら引っ張っていく。それで、昼間に待機しとったら、日の丸を付けた飛行機が上を飛んでいったんだね。20機くらい編隊を組んで来たよ。なんか敵機を追い掛けて、空中戦をやっとった。すごいな、と心強い感じがしたね」
「でも、友軍機を見たのはその時だけ。その後は1機も見なかった」
ビルマの制空権は、連合軍の手中にあった。(森 信弘)
2015/8/25