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ビルマ北部で砲撃を受けた今里淑郎さんの右膝に残る傷痕。「弾の破片を取ったのは帰国してからや」=宝塚市宝梅2(撮影・峰大二郎)
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ビルマ北部で砲撃を受けた今里淑郎さんの右膝に残る傷痕。「弾の破片を取ったのは帰国してからや」=宝塚市宝梅2(撮影・峰大二郎)

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ビルマ北部で砲撃を受けた今里淑郎さんの右膝に残る傷痕。「弾の破片を取ったのは帰国してからや」=宝塚市宝梅2(撮影・峰大二郎)

ビルマ北部で砲撃を受けた今里淑郎さんの右膝に残る傷痕。「弾の破片を取ったのは帰国してからや」=宝塚市宝梅2(撮影・峰大二郎)

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 陸軍第55師団衛生隊の細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=が、ビルマ(現ミャンマー)でシッタン河を渡る半年前の1945(昭和20)年2月。歩兵第168連隊の無線分隊長だった今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=らは、ビルマ北部から中部の町、メイミョーまで撤退してきていた。

 「メイミョーはビルマで一番気候のいい所でね。スイートピーや菊のようなものとか、いろんな花が一遍に咲いているんです。高級な避暑地になっとってね。みんなゆっくりしとったんですわ」

 だが、休息はつかの間だった。日本軍が守っていた約160キロ南西の要衝、メイクテーラに連合軍の戦車が進撃中との緊急連絡が入る。戦車は当初数十台と認識されていたが、その後は戦車、貨物自動車計約2千台との報告に変わっている。

 「現地には、戦闘部隊らしい部隊がおらんかったんです。歩兵部隊やったらはよ守備に回ってくれ、と。またやられんのか、と思いましたな。通信の機材は使えるもんもあったんやけど、後で送るからはよ行け、と体一つで行ったんです。通信兵でありながら、機材がなかったら役目が果たせへん。もう混乱状態になってたんですわ」

 旧防衛庁が編集した戦史叢書(そうしょ)などによれば、メイミョーから向かった兵は第168連隊本部などの約400人。2月27日夜に到着し、なんとか防衛戦に間に合ったが、十分な装備はなかった。

 「敵の戦車はそんなおらんと思てたら、後からどんどこどんどこ来る。私らは今まで山岳地帯にばっかりおったから、ここで初めて戦車に遭ったんですわ。メイクテーラは平地でしたからね。もう、ぐわーっと取り囲まれてしもたんです」

 今里さんは3月1日だったと記憶している。少し高い所から戦車が見下ろし、総攻撃が始まると思われた。包囲網の外には第168連隊のうち、後から来た部隊がいた。

 「これはもう全滅してしまうと。こちらに連隊長もおったし、他の部隊に報告せないかん、となったんです。通信の機材は届いてまへん。その日の昼間に2人ずつ3組を伝令に出したけど、やられてしもたんです。それで責任者の私が夜に出ることにしたんですね。死んだときのために部下を1人連れて行きました。ここにおってもやられるし、任務のために死んでもしゃあない、と出たんです。夜がもうとっぷり暮れた午後9時か、10時くらいでしたな」(森 信弘)

2015/8/30
 

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