1945(昭和20)年4月。連合軍に追い詰められた日本軍のビルマ(現ミャンマー)方面軍司令部は、ラングーン(現ヤンゴン)を放棄し、タイに近いモールメンまで撤退する。陸軍第55師団の一部などが所属する第28軍は命令もないまま、ビルマ南西部で敵中に取り残され、5月にペグー山系へ逃げ込んだ。そこには、野戦病院で療養し、同師団衛生隊に復帰したばかりの細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=の姿もあった。
「1週間分の食料を持って山へ入ったんだけどね。食べる物がだんだん減ってきます。だから、米を少なくして、タケノコをご飯にまぜるわけ。ビルマは竹がたくさん生えてたからね」
「それでも米が不足してくると、山の中の集落で現地の人に米を出させて、足で踏む臼でついて白米にしてもらうわけや。現地の人はえらい迷惑したと思うよ。せっかく蓄えとった米を日本軍に取られて、しかも白米にさせられるわけやから。軍票(日本軍が発行した紙幣)は渡してると思うけどね、負け戦で軍票をやっても誰も喜ばんからね」
ペグー山系は、竹の密林だった。連合軍に包囲された第28軍は、ここで兵力の集結を図る。山中では食料を欠く上に雨期が続き、マラリアが流行していた。旧防衛庁が編集した戦史叢書(そうしょ)によれば、第28軍は10月中旬の雨期明けまでに、友軍に合流するためペグー山系の東側を流れるシッタン河を渡らなければ、全滅の恐れがあると考えていた。
「7月初めかな。米を用意するよう言われて、現地の集落のもみ倉に米を取りに行ったね。ズボン下の両足と胴体の部分をくくって袋を作り、それに米を入れて担ぐ。他人の分も用意せんといかんから、飯ごうにも詰めたね。戦場で一番大事なのは塩やった。副食がほとんどないのに塩が切れたらご飯が進まないから、貴重品やね。体が弱ると余計、味がなければ喉を通らない。それと、マラリアを治療する錠剤をみんな大事に持っとった。あと、火を付けるマッチやね」
「シッタン河を渡るというのは分かっとった。いかだを組み立てる縄を作れ、と言われてね。でも、私らは作ったことがないから農家出身のもんに作ってもらわんといけない。タバコの葉っぱを刻んだやつを少しあげて頼むわけね。とにかく、大きくて広いシッタン河を渡らないかん、と。そのための準備をしとったね」
戦史叢書によると、雨期真っただ中のシッタン河は幅が約200メートルあり、濁流が渦巻いていた。まずは、山を抜け出して渡河地点までたどり着く必要があった。(森 信弘)
2015/8/27