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 元陸軍少尉の今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=がビルマ(現ミャンマー)から復員した1946(昭和21)年7月。陸軍第55師団衛生隊の担架兵だった細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=は、まだ同国南部の捕虜収容所にいた。45(同20)年8月、友軍に合流するためシッタン河の濁流を渡った後、タイとの国境に近いモールメンに向かう途中で終戦を迎えていた。

 「終戦のうわさは聞いてたんです。英軍の飛行機が来たけど、射撃もせんとそのまま飛んでいったから、終戦を確信したわけ。その時はほっとしたね。悔しいとか言ったって、勝負にならないんだからね」

 捕虜になってからは、日本軍が置いていった砲弾の処理や雑役をさせられた。

 「収容所の夜は、ざっくばらんにいろんな話をするんですよ。中国にいた時に女性に乱暴した、という話も聞きました。ビルマでも、私らは現地の人と友好的に付き合ってたけど、女性にいたずらしたという話を聞いたことがあります。戦争は異常心理というか、人間性をなくしてしまう面があるんですよ。得意そうに話すんじゃないよ。そういう話は、罪悪感があって黙っておれんのやと思うね」

 47(昭和22)年の5月にようやく帰国。その後は農林省の大阪営林局などで65歳まで働いた。

 「退職後の86(同61)年にね、思い付いたこと、身辺のことを離れて暮らす家族に伝えようと思って、『垂水たより』という家族新聞を始めたんです。毎月、B4の紙1枚を子どもや孫に送ってきました」

 「一番初めは、戦争の印象深いところから始めたんです。シッタン河に向かって歩いている時、足を痛めて遅れていった。だけど死んでたまるか、と思った。遅れてもいいから最後まで自分の足で歩いていこう、という話から始めました。それから、孫に戦争の話を聞かせてほしいと言われたこともあって、ビルマの戦記を10年ほど書き続けてきたね」

 2007年には、ミャンマーの人たちとの草の根交流を進めるNPO法人「神戸ミャンマー皆好会」に入会。会合で請われれば、同国での戦争体験を語ってきた。戦後70年の今夏には、小学生らにも話をした。

 「ビルマでは、非常に多くの人が無念な思いで亡くなったんですね。その人たちは何のために亡くなったのか。家族や日本、美しい古里がずっと平和で繁栄してこそ安心して眠れるだろう、と思います。この人たちがね、命を捨てたかいのある日本じゃないといけない。こんなはずじゃなかった、と言わせてはならない。戦争を二度としない。みんなが心豊かに生きられるようにしないと。それはいつも思いますよ」(森 信弘)

=おわり=

2015/9/4
 

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