ビルマ(現ミャンマー)南部のペグー山系で兵力を集結させた日本の陸軍第28軍は、その東側を流れるシッタン河を渡るため、満を持して山中で動きだす。第55師団衛生隊の担架兵だった細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=も、その中にいた。1945(昭和20)年7月19日の朝だったと記憶している。山中には、自決する銃声が響いていた。
「もう動けない兵隊がおるからね。重病人とか歩けない兵隊は、銃や手りゅう弾で自決する。軍医さんも自決の薬を与えるんやね」
旧防衛庁が編集した戦史叢書(そうしょ)によれば、ペグー山系に入った第28軍は約3万4千人。だが、山にこもっている間、栄養失調やマラリアで死者が続出していた。極限状態の中、細谷さんは何とか仲間を助けようとする姿も目にした。
「少しでも歩ける人はね、山の出口まで戦友が大変な苦労をして助けながら行くんやね。横にした竹2本を病気の兵隊に抱えさせ、竹の前と後ろを1人ずつが持って歩くのを見ました。きっと、同郷か知り合いだったんだと思います。でも山から先へは、そこまでできなかったと思いますね」
渡河作戦開始日の7月20日未明。細谷さんらはペグー山系を下り、シッタン河に向かった。途中、集落を通り掛かった時、1人の兵隊から白いご飯が入った飯ごうを差し出された。マラリアにかかったのか、座り込んで動けない状態だった。
「持って行けったってね、私は受け取れなかった。野戦病院ではね、患者が亡くなったら、すぐ兵隊が来て飯ごうの取り合いになるんです。それぐらい飯ごうは、命のもとなんです。やっぱり、死ぬときまで本人が持っておくべきでしょう。差し出してくれた人は、以前から気心が知れた人でした。でも引っ張っていくことは、できなかったですね。気の毒だったね。そうやって、置いていかれた人たちがたくさんいたと思います」
「動けなくなったら、もうおしまいという感じでしたね。捨てていくわけです。私も手りゅう弾は2発持っていて、1発は攻撃用、もう1発は自決用と思ってました。寝ていた時、自決する爆発音を聞いたこともあります。私は、衰弱して入院しとったおかげで体力が回復しててね。もし入院してなかったら歩けなかったね」
昼は隠れて、夜に動く。細谷さんは、連合軍に攻撃される緊張感から疲れが増し、うとうとしながら歩いた。(森 信弘)
2015/8/28