第5部 海山美(みやび)の春
兵庫県香美町香住区の御崎地区で、毎年1月28日に執り行われる「百手(ももて)の儀式」を紐解くと源平合戦の時代までさかのぼる。壇ノ浦の戦いで敗れた平家が逃れてきた地で、地域の住民はその末裔という。平家再興を願う儀式が今も伝えられている。

薄暗い建屋のあちこちで、まきストーブが火の粉を飛ばす。パチパチとはじける音をかき消すように、カランカランと鈴が鳴る。
3月4日午前6時、円い月が浮かび、オリオン座が瞬く香住漁港(兵庫県香美町)。所在なげにたむろするジャンパー姿の人影が、赤く染まったベニズワイガニのコンテナへ動きだす。競りが始まった。
「こっからここまで3列60杯1万2千円から。1万2千円、1万3千円…」
競り人の澤田敏幸さん(49)の独特の節回しに、仲買人が指や目で合図を送る。10分ほどで900杯ほどがさばける。せき立てるように軽トラックがなだれ込み、コンテナを積み込んでいく。
カニの脚が散らばる横で、氷で火が消えたストーブがブスブスとくすぶっている。「あったかいね、今日は」。澤田さんが笑う間にも夜は白み、穏やかな日差しが辺りを包んでいく。
青空を飛び交うカモメを引き連れて、定置網漁の豊漁丸が入ってきた。船長の藤平進さん(63)が、ブルーシートの上に取れたばかりの魚を並べていく。
サワラが多い。漢字では、魚へんに春。マダイに、ホウボウ、メバルといった赤い魚が目に付くのも、冬の終わりを告げる兆しという。
飛行機雲が空に映えたこの日、香住の最高気温は20度を超えた。
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建屋に打ち付ける雨音が、火の粉のさざめきを打ち消す。翌5日、一変した空を澤田さんが見やった。「斜めに吹き付けるのが冬の雨。今朝は真っすぐに降っとるね」
どよめきが起こった。1杯20尾に4万円の値が付いたのは、初物のノドグロ。名前の通り、口の奥は確かに黒いが、それよりもやはり、鮮やかな赤い身に目を奪われる。
灰色の空の向こうから、藤平さんの豊漁丸が戻ってきた。10キロを超えるヒラマサがかかったが、サワラは全くいない。
網を仕掛けた場所も、引き揚げた時間も前日と同じ。潮流が変わったようだ。天候も魚もつかみどころがないことは、誰よりも分かっている。
「うちらの先祖の平家もな、村上水軍に裏切られたせいで潮の流れが読めんくて、散り散りになったいう説があるんや」
苦笑いを浮かべた藤平さん。引き合いに出したのは、800年以上も昔の源平合戦だった。

余部橋梁(きょうりょう)(兵庫県香美町香住区)のたもとから、日本海に沿うように細い山道がうねる。所々に、黒ずんだ雪の塊が残っている。
代わり映えしない木々の景色を眺めながら、車で10分ほど。崖のふちに張り付く民家の屋根が、唐突に現れる。漁師の藤平進さん(63)が生まれ育ち、今も暮らす御崎(みさき)地区。家々が斜面に寄り添うように集まり、急勾配の狭い路地でつながる。
「若い頃は都会に出ようと思ったこともあったけど、いつの間にか居座ってね。一杯飲んでは笑ってけんかして、仲間意識が強いところだから」
御崎は1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡した平家が逃れてきた地で、藤平さんを含む18世帯57人(2月末現在)の住民はその末裔(まつえい)という。全国の300カ所以上に残る「平家伝承」の一つだ。
口伝では、平清盛の弟で「門脇宰相」と呼ばれた平教盛(のりもり)が、伊賀平内左衛門(へいないざえもん)や矢引六郎右衛門らを引き連れて定住した。門脇、伊賀、矢引の名字とともに、平家の再興を願う儀式が伝わる。

揚羽蝶(あげはちょう)の家紋をあしらった真っ赤な旗が、高台の平内神社へ向かっていく。「控えー、控えー、脇に寄れ」。雪に覆われた集落を和服姿の行列が続く。
毎年1月28日に執り行われる「百手(ももて)の儀式」。地区に住む若者が、境内に取り付けられた的に向かって101本の竹の矢を射る。おぼつかないしぐさの射手に寄り添い、手取り足取り教える男性がいた。
「『落人』って言われるのがどうも嫌で。普段は意識もしないし、自分からアピールすることもないけど、意地みたいなもんはあるかな」
中野正一さん(61)。香住高校を卒業後、旧北兵庫信用組合で渉外やシステム開発に携わり、現在はみなと銀行で融資業務を担当する。経歴だけを切り取ればリアリストだが、出自へのロマンとプライドは、御崎の人たちの中でも特に強い。
祖父や父から、やりの名人と言われた武士が先祖だと教えられて育った。幼い頃、地区外の友達から「落ち武者」とからかわれ、思わず「水のみ百姓が何だ」と言い返したことを覚えている。
十数年前には、地区の入り口にある駐車場の看板に、御崎の由緒を手書きで記した。「同情してもらいたいわけじゃなく、自分たちの存在を正しく理解してほしいから」
だが、伝承に確実な裏付けがあるわけではない。教盛は壇ノ浦で亡くなったとする文献がある。付き従って御崎に根差したとされる伊賀平内左衛門についても、神社の名前に残るが、「本流」を自負する家が別の場所に存在する。
約15キロ南東にある香美町香住区の畑(はた)地区。やはり平家が流れ着いたとされる山あいの集落だ。
31代目の伊賀栄文(ひでふみ)さん(66)によると、代々の当主が亡くなると、息子が平内左衛門の名前を継いできたという。祖父直之さんも、父順之(としゆき)さんも裁判所に届け出て改名した。だが、2010年に順之さんが亡くなった時、栄文さんは手続きをとらなかった。
「恥ずかしいというか、煩わしいというか。うちは娘しかいないし、私の代で区切りを付けようかと」
栄文さんは今、故郷を離れて神戸市内で暮らしている。

雪景色に残ったのは、無数の足跡と、海から吹き付ける冷たい風。101本の矢を射終わり、御崎に冬の日常が戻る。
気候が厳しく、市街地に出るのもひと苦労。住民がみんな平家の末裔を名乗れるのは、よそから入ってきて定住した家族がいない裏返しでもある。
その仲間も、ぽつぽつと去っていき、地区にある小学校の分校は今、児童1人に先生1人。門脇、伊賀、矢引の3家も引っ越していった。伝承にすがって生きることはできないが、中野さんは「この場所で暮らす意義を感じ、心をつなぎ留める助けになっている」と信じる。
3月初旬、雪をかき分けるように、集落が薄い緑に色づき始めた。路傍に咲く、一株の花。壇ノ浦から落ち延びた教盛らが食べて飢えをしのいだとされる「平家カブラ」だ。
菜の花に似た黄色い花びらが、緩やかな風に揺れる。下旬にもなれば、斜面をじゅうたんのように彩る。何十年、何百年と変わらない御崎の春が、また巡ってくる。(記事・小川晶、写真・斎藤雅志)

源平合戦に敗れた平氏の一族や家臣らが、逃げ延びたとされる言い伝え。山間部を中心に全国各地に点在し、兵庫県内では但馬地域で目立つ。徳島県三好市の「平家屋敷」や宮崎県椎葉(しいば)村の「椎葉平家まつり」など観光資源として活用されているケースもある。子孫の一部は「全国平家会」(事務総局・山口県下関市の赤間神宮)をつくって交流を続けている。