第7部 水ものがたり
日本では古来海水から塩を作っていた。塩作りの先進地であり現在も盛んな播州赤穂。塩の専売制が廃止されてから参入した淡路島の事業者。先人たちの技を引き継ぎ、現在に伝える現場を訪ねた。

まるでサウナだ。
昔ながらの塩作りを再現した赤穂市立海洋科学館・塩の国(同市御崎)にある釜屋は、記録的猛暑だった今年の夏が涼しく思えるほど、桁外れに蒸し暑い。
この日は、月に2回ある釜焚(た)きの実演日。かやぶき屋根の下で、縦2・4メートル、横3メートルの大釜が煮えたぎる。海水の塩分濃度を高めた「かん水(すい)」を3時間煮詰め、塩の塊を作り出す。
家族連れら約50人が汗を浮かべながら、スタッフの岩崎昌弘さん(62)の説明に聞き入る。「柄振(えぶ)り」という道具を操り、水分をたっぷり含んだ、出来たての塩を押し集めた。
姫路市立旭陽小学校5年の嶋根淳朗君(10)は「塩が重たかった」とぽつり。塩田で働いてきた「浜男(はまおとこ)」たちの苦労が身にしみた。
「塩だけに、この仕事は甘くないでしょ?」と岩崎さん。
うん。確かに、塩辛い。

岩塩や塩湖が豊富な大陸と違い、日本では海水から塩を作るほかなかった。海水の塩分濃度は約3%しかない。いかにその濃度を高め、効率よく塩を取り出すか。日本人は長きにわたって闘ってきた。
塩作りの先進地であり、現在も盛んな播州赤穂。江戸初期から、沿岸部で従来の製塩を発展させた「入浜(いりはま)塩田」が確立され、全国へ広まっていく。
入浜塩田は、干満差が約1~2メートルと程よく、波が穏やかな瀬戸内海の特徴を利用した。遠浅に堤を設け、満潮時に海水を引き入れる。塩田の砂にしみ込ませ、太陽熱で水分を蒸発させ、煮詰めて塩を作り出す。
人力で海水を塩田に運び込む必要がない画期的な手法は、備前、安芸など瀬戸内10カ国に広がり、江戸期にはこの「十州塩田」が国内8~9割の生産を賄った。北は宮城、南は鹿児島まで、赤穂の技術者が請われて“赤穂流”を教えに行ったとの記録も残る。
塩の歴史に詳しい赤穂化成(赤穂市坂越)の上席執行役員、横山博好(ひろよし)さん(65)は「赤穂の塩は船で江戸に運んでも目方があまり減らんかった。だから重宝がられた」と、その質の良さも誇る。千種川河口の東側は東浜と呼ばれ、にがりを多く含み大量消費に適した「差塩(さしじお)」を江戸へ。西側に広がる西浜はにがりが少なく高級とされた「真塩(ましお)」を大坂や京へ。赤穂塩の名声はとどろいた。
入浜塩田は戦後、より生産性の高い「流下(りゅうか)式塩田」に変わるまで、実に約300年間続く。昭和40年代には、工場内で電力を使って海水と塩分を分離する「イオン交換膜法」に転換。赤穂など瀬戸内沿岸に広がった大規模な塩田は姿を消した。

国は1997年、日露戦争時から92年間続いてきた塩の専売制を廃止した。この「塩の自由化」により、多様な事業者が参入した。
南あわじ市榎列(えなみ)小榎列の多田フィロソフィもその一つ。江戸時代に綿屋として創業し、畜産飼料の販売などを手掛けた老舗だ。99年、海藻を使った藻塩(もしお)を商品化した。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ
小倉百人一首選者の藤原定家が、松帆(現淡路市)を挙げて詠んだように、島と藻塩の関係は深い。古来、塩は海藻そのものを焼いた灰から作ったり、海藻を重ねて海水を注ぎ、かん水を得たりしたと伝わる。淡路島でも近年、遠い昔の塩作りを物語る土器が見つかっている。
「次のビジネスを模索しているときにその歴史を知り、運命的なものを感じた」と11代目社長の多田佳嗣(よしつぐ)さん(52)。製塩工程では南あわじ市沿岸で取水した海水を煮詰め、海藻を入れて加熱する。鍋の中はコーヒーのような黒っぽい色に変わり、磯の香りが漂う。さらに炊き上げて塩を結晶化させる。商品によっては4日間かけて、職人の手でじっくりと仕上げていく。
「テーマは、温故知新です」。島の名を冠した藻塩は東京の高級ホテルなど全国や海外にも出荷し、社のメイン事業に成長した。国生みの島の歴史が塩作りを後押しする。

塩によって人生を変えられた人がいる。
約15カ所のノズルから、勢いよく海水が噴射された。黒いネットをつたいながら、4メートル下に滴り落ちる。繰り返すうち、風や日差しで水分が飛び、少しずつ塩分濃度が高まる。木組みの枝条架(しじょうか)は、昭和40年代まで続いた流下式塩田で用いられた。
洲本市五色町の浜辺にある「脱サラファクトリー」の製塩場。神戸市西区出身の末澤輝之さん(37)が、1人で黙々と作業する。
社名の通り“脱サラ”し、6年前に起業。大学卒業後、外食産業などで働き、「食材って何?」と疑問が湧いた。行き着いたのは塩と水。大分で製塩を学び、独学で深め、目の前に広がる播磨灘と向き合う。
釜焚(た)きをするのは簡易な小屋。雨の日は作業ができず、播磨灘から吹き付ける冬の西風に悩まされるなど環境は厳しい。それでも「自分で作ったもので喜んでもらえるのがうれしい。死ぬまで続けたい」。あの赤穂の浜男(はまおとこ)にも似た生き方に、手応えを感じている。
水がもたらす食や営み。その恵みに思いをはせる。食卓の塩をひとつまみ。口にすると、しょっぱさの中に、ほのかな甘みが広がった。
(記事・上田勇紀 写真・大山伸一郎、斎藤雅志)

幼いころ、海水を滴らせる枝条架(しじょうか)のそばを通ると、風に乗ったしずくが頬に当たった。赤穂市では、そんな昭和の思い出を語ってくれる人たちによく出会った。
塩田は失われたが、今も製塩の街。行政は塩ブランドに磨きをかける。升の生産で知られる岐阜県大垣市とタッグを組み、塩を置きやすい升を開発し、塩をさかなに日本酒を楽しんでもらう取り組みも進む。先進地の誇りとともに、塩の記憶はこれからも上書きされていく。