五五%が借家に住み、その六割近くが家賃三万円以下。持ち家の半数も、敷地が二十坪に満たない。交番や郵便局がなく不便ではある。しかし、七割の住民が「これからも住み続けたい」と希望する。
阪神尼崎駅から南へ歩いて十分ほどにある築地地区。地元の復興委員会が実施した全世帯アンケートは、まちの素顔を浮かび上がらせる。
広さ十三・七ヘクタール。築地地区は尼崎城の城下町として発展してきた。江戸時代に庄下川の河口を埋め立てたため、むろん液状化対策などはしていなかった。震災で、七百三十三棟のうち十三棟が全壊、半壊は二百十七棟に及んだ。尼崎市では一、二の被災地だ。
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一瞬にして八〇%の家が傾いたが、住民の立ち上がりは早かった。
震災から二日後に、液状化対策を求める要望書を市に提出。二月末には自治会と各種団体の役員が中心となり、復興委を発足させた。持ち家、借家、商業など五つの部会ごとに検討を重ね、尼崎市も正式な住民の窓口として、コンサルタントを派遣した。
顔見知りばかり、気心の知れた人間関係にひびが入ったのは、ゴールデンウイーク明けだった。幅十六メートルの幹線道路案が復興委から住民に示され、市も都市計画道路として都市計画審議会に提案した。
「唐突だ」と反発する住民が、「築地の町づくりをみんなで考える会」をつくり、見直しを要求。都計審は住民の合意形成を求める異例の意見を付け、計画を認めた。
これ以降、二つの住民組織が、それぞれ独自のまちづくり案に取り組む。
考える会は八月、「水と祭の復興まちづくり」と題した素案をまとめ、印刷して全戸に配った。液状化と地盤沈下を引き起こした元凶の地下水をくみ上げ、せせらぎにして流す。街角には十四体のお地蔵さん。伝統のだんじりが復興のシンボルだ。
まちづくりの専門家として案づくりにかかわった浅野彌三一さん(48)は「道路や公園がどれだけ防災に強いのか、はっきりしていない。道路、公園ばかりではどこの町も同じになってしまう」と、従来通りのまちづくり計画を批判。「『水』や『祭』などソフトを重視した方が町の将来像がイメージでき、住民にも分かりやすい」と話す。
復興委は「明るく住みよい環境」を目標に、道路や公園などハード中心の案を決定。安川太一委員長(64)は、考える会の提案を「ごく一部の住民がやっていること。いちいち目くじらたてることはない」と黙殺の構えだ。
これに対して、「われわれも住民。復興委に反対しているわけではなく、意見を聞いてほしいだけ」と、考える会代表世話人の中島一樹さん(51)。だが、九月に入り、「復興委はみんなの要求をまとめない」としたチラシをまき、両者の感情的なもつれは決定的になる。
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この十八日、復興委は築地地区住民の”総意”としてまちづくり案を市へ提出する。
下町の良さを残すこのまちを襲った地震は、人びとの心にも深い亀裂をもたらした。
1995/10/16