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(1)傾いた家 全身だるく吐き気も 畳がめくれ開かない戸
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 尾てい骨から背骨の辺りに鈍痛を感じる。全身がだるく、吐き気を催す。頭の中にかすみがかかったような状態が何日も続いた。

 芦屋市南部の埋め立て地・芦屋浜シーサイドタウン。最も海側に住む渡辺栄子さん(63)は震災後、こうした症状に悩まされた。液状化で家が大きく傾き、平衡感覚に障害が生じた結果だった。

 最大高低差は三十センチ。ドアを閉めても勝手に開き、廊下に物を置けば転がった。水道が復旧しても、洗濯機やふろの排水口から水があふれ出した。排水管が逆勾(こう)配になったためだ。

 ガスの復旧作業員は、ガス管の位置を記した台帳を手に首をかしげた。その地点を掘っても管が見当たらない。大地は動いていた。

 「シーサイドは大丈夫」。震災当時、そんな”認識”が市民の間にあった。壊滅状態の市街地に比べ、家屋は倒壊するどころか、タイル一枚はがれていない家もある。芦屋市の一次調査の判定は、全壊ゼロ、半壊一戸、一部損壊五十八戸。市内で最も被害が少ない地域だった。

 被害判定の根拠となった国の統一基準には、「損壊」「焼失」「流出」との表現はあるが、「傾斜」はない。住民からクレームが殺到する。市は急きょ、学識者の調査委員会を設け、「傾斜」を被害に乗せた独自基準を編み出した。

 傾いた約一千戸を新基準に照らし合わせると、全半壊率は六六・七%。シーサイドタウンは、たちまち大規模な被災地帯となった。

 渡辺さんはこの夏、県の調査を待たず、修復工事に踏み切った。家の内外十六カ所の基礎部分にジャッキをかませ、一気に手動で上げる。鋼材を入れてコンクリートを流し込む。総費用は一千万円を超えた。

 家屋は水平を取り戻した。が、渡辺さんは漠然とした不安をぬぐえない。「地盤そのものはどうしようもない。普通の家のように建て直したからといって安心できない」。液状化のツメあとは、まだ見えない場所にある。

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 尼崎市南部の築地地区。ここも八割の建物が液状化で傾いた。独り住まいの森友ミツ子さん(71)の借家は、いまも戸が開かない部屋がある。地面が下から突き上げて畳はめくれ、土間のコンクリートが盛り上がった。自費で修理したが、家主から立ち退きを求められた。

 五十平方メートル余りの広さで家賃は一万円。出ていかないのなら、と値上げを通告され、今は三万円になった。夫とは約十年前に死別。年金が頼りだけに、生活は苦しい。公害病患者の認定を受け、さらに震災後の水くみで背骨を痛め、寝返りを打っても痛みが走る。代わりの家を探しても、年齢を理由にすべて断られた。

 「やっぱり住むところが一番心配やね。なんとか市営住宅に入りたいんやけれど」。土地区画整理事業で数年後に市住ができても、入居できる保証はない。

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 シーサイドタウンは一九六九年に兵庫県企業庁が造成し、約一万七千人が暮らす。整然とした街並み、高層の住宅群が特徴ある景観を生み出している。ごみを真空輸送するパイプラインや地区防災システムなどを備え、「二十一世紀のモデル都市」とうたわれた。

 かたや江戸時代に埋め立てられた築地。狭い路地を囲むように文化住宅が並び、約二千四百人が肩を寄せ合うように暮らす。工場の地下水くみ上げで地盤は一、二メートル沈下。はきだされる煙が多くの公害病患者を生んだ。周囲を国道43号線と川に囲まれ、住民は「陸の孤島」と自嘲(じちょう)する。

 一瞬の揺れが引き起こした液状化は、対照的な二つの埋め立て地の人々の暮らしをズタズタに切り裂いた。復興に向け動き出した住民。だが行政と法律の壁が立ちはだかり、復旧さえままならない。震災からまもなく九カ月。初めて経験する大規模な液状化を克服する道のりは、どこまで進んだのか。

(記事 小野 秀明・徳永 恭子

<メモ>液状化 地震の振動で地下水が一気に噴き上げ、地盤が泥水のように緩む現象。六四年の新潟地震で大きな被害が確認され、本格的な研究が始まった。埋め立て地が液状化しやすく、阪神大震災では神戸・ポートアイランドの港湾施設が壊滅したが、住宅は対策を講じた高層しかなく、比較的影響は少なかった。

1995/10/14
 

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