一九九七年一月。一人の母親が、阪神高速道路公団を相手に提訴した。
大動脈、阪神高速神戸線。「倒れるはずがない」とされてきた日本の高速道路が、マグニチュード7・2が引き起こした揺れで崩壊した。橋げたの下に、マイクロバスを運転していた一人息子の英治さん=当時(51)=がいた。
「道路の設置・管理に瑕疵(かし)があった」として、国家賠償法に基づき、約九千二百万円の損害賠償を公団に求めている。
訴えた萬みち子さん(76)に会った。西宮市内のマンションの窓から、復興した阪神高速が見える。南へ約五百メートル。あの日、息子が命を落とした「現場」だ。
みち子さんは、仏壇の前で、話し始めた。
「すべてを『不可抗力』と片づける公団の姿勢はおかしいと思いませんか。再発防止へ、責任の所在を明らかにしたい」
震災の前年、高速道路が倒壊したロス地震の惨状をテレビを見ながら、二人で交わした会話を記憶している。
「日本の高速道路はこの何倍の地震でも大丈夫、と学者も言っている」
英治さんの言葉に、「それでも倒れたら」と聞き返した。
「その時は、原因をとことん究明してくれ」
まさか、それが現実になるとは思わなかった。
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神戸市東灘区深江付近。橋げたは約六百三十メートルにわたって横倒しになり、湾岸線を含む神戸、西宮市内の四カ所で落橋した。死者十六人、負傷者七十九人。
日本が築いてきた技術力への自信、”安全神話”が崩れ落ちた瞬間だった。
遺族や専門家からは、手抜き工事と材質不良の可能性を指摘する声が相次いだ。高架での復旧中止、地下化を提言した学者グループもいた。
だが、公団側は復旧を急いだ。地元自治体や経済界も、早期復旧を望んだ。結局、予定より早い九六年九月末に全線開通した。
阪神高速道路公団法第二九条「災害復旧工事を行う」。公団は、その条文を根拠に、元の姿に戻した。復興に高速道路は欠かせない。そうした声が背景にあった。
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なぜ、崩壊したのか。建設省は九五年十二月、原因調査の最終報告書を出した。
「耐震設計を上回る巨大な水平方向の地震力が加わった」と結論づけ、手抜き工事の疑いによる耐力不足についても否定した。
報告書をもとに、公団は「天災」と主張、賠償責任は負わないとしてきた。
みち子さんは、公団の説明を何度も聞いたが、納得できない。公団が遺族に示したモニター謝礼名目で月十万円を十年間支給する支援金を、今も拒否する。
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現場に立った。わずか五年ほど前の惨状が、まるで遠い昔のことのようだ。
公団は約二千六百億円をかけ、落橋防止や免震機能の向上など耐震対策を進めた。「二度と壊れないように再構築した」という、その基準は「阪神大震災級にも耐える」だ。
だが、そう決意させたのは、英治さんら多くの犠牲者であるのは疑いない。
「予想を超える災害だから、責任は免れるのか」
みち子さんの訴えは、一公団だけでなく、それを許してきたこの国の姿勢にも疑問を投げかけている。