「このままでは、貨物がなくなってしまう」
神戸の内航コンテナ船会社、井本商運。井本隆之社長は阪神・淡路大震災後に日本各地の港で起きた“異変”を、会社存亡の危機にすら感じた。
神戸や横浜などの主要港と地方港を小型船でつなぐ「内航フィーダー事業」のパイオニア。主に九州や中四国から神戸に貨物を集めていた。
震災で、ライバルだった韓国の船会社に多くの貨物を奪われたが、もっと痛手だったのは巨額の公費で、日本各地にコンテナ港が整備されたことだった。
一九九〇年代初めに数カ所だった地方コンテナ港は、十年余りで六十を突破。地元の官民は国際航路を求め、こぞって韓国の船会社を誘致した。それまで神戸や横浜で外航航路に積み替えていた貨物が、釜山へ流れた。「日本の港全体の競争力を弱めた」と多くの港湾関係者が嘆いた。
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震災前の神戸港は内航と外航のバースが離れており、陸送費用がかさんだ。神戸市は九八年、内航コンテナ船が外航バースに接岸できるようにし、内航船のクレーン料金を半額にした。内航フィーダー貨物量は一時的に増えたが、翌九九年からは震災前を下回る水準に再び落ち込んだ。
「このまま手をこまねくわけにはいかない」。井本社長は関東に事業を拡大し、運賃設定を変えた。必要経費の足し算から、「まず韓国と戦える価格を設定し、費用が収まるように考えた」。荷主志向に舵(かじ)を切った。
新型船開発にも力を入れ、積載効率を追求した結果、主力の四九九トン船は積載量が倍に増えた。
内航フィーダーから貨物を受け取り外国へ運ぶ大手船会社も、神戸復活に本腰を入れた。ポートアイランド2期でコンテナターミナルを運営する商船三井は二〇〇二年から「そして神戸プロジェクト」と名付け、瀬戸内の荷主を重点的に訪れて利用を呼び掛けた。
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官民の努力が奏功し、数年前まで「三-四割」とされた釜山とのコスト差は「戦えるまで縮まった」(神戸市)。〇三年の内航フィーダー貨物量は前年比18%増。震災前の水準を取り戻した。
だが実際に神戸が勝てるエリアは、近接する瀬戸内東部までに限られる。「神戸市などが管轄する港湾施設使用料の値下げも必要」と、商船三井の平川善晴神戸支店長は指摘する。
ようやく吹き始めた追い風。井本社長は意気込む。「全国にコンテナ港が整備されたのだから、それぞれで貨物を集め、神戸で外航船につなげたい。地方港も活性化できるはずです」
2005/2/5