「あのセンバツが開催されなければ、今の僕はないと思う」
1995年春の第67回選抜高校野球大会を制した香川・観音寺中央の当時主将、土井裕介(32)はそう振り返る。
阪神・淡路大震災の影響で一時は開催が危ぶまれる中、同年のセンバツは開幕した。大会は強豪がひしめいた。PL学園(大阪)の主砲・福留孝介(現カブス)が注目を集め、今治西(愛媛)には藤井秀悟(現巨人)、星稜(石川)に山本省吾(現オリックス)と、後にプロで活躍する選手が顔をそろえた。
一方、観音寺中央は春夏通じて甲子園初出場。全国的には無名の公立校で「出られるだけで幸せだった」と土井は言う。ところが、チームは快進撃を演じた。2回戦で伝統校の東海大相模(神奈川)、準々決勝で星稜を撃破。決勝では優勝候補の一角だった銚子商(千葉)を倒し、出場32校の頂点に立った。
復興途上の被災地に配慮し、開会式は従来の華美な演出を控え、鳴り物による応援も自粛された。「高校野球の原点」に立ち返る大会とも言われた。観音寺中央のユニホームはアンダーシャツ、ストッキングまで白一色。純白のオールドユニホームとともに同校の優勝は、震災センバツを象徴した。
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土井は西宮市で生まれ育った。高校入学と同時に単身で四国に渡るまで、阪急苦楽園口駅近くで暮らした。震災で実家は半壊した。発生から1週間後、西宮に帰ったときは避難所で寝泊まりした。被災地の悲惨な状態を知っていた。
大会に入ると、復興作業の妨げを避けるため、大阪市内の宿舎から甲子園球場まで電車で移動した。試合当日は、西宮の小中学校時代の同級生や担任教師が阪神甲子園駅で出迎え、激励してくれた。
「みんなの方が大変なのに…」。土井は人の温かみを感じ、被災地で野球をやることにあらためて感謝した。
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土井は4年前、監督として観音寺中央に戻った。優勝した年の夏以来、甲子園から遠ざかっている母校で再び、夢を追いかけている。
高校卒業後、関大に進学し、主将を務めた。社会人野球の三菱自動車岡崎(愛知)で2002年まで現役を続けた後、引退。会社で経理の仕事をしながら教員免許を取得し、06年春、観音寺中央に赴任した。
母校を率いる土井の指導の基本には、あの春の経験がある。
当時、主将だった土井はナインに全力疾走を呼び掛けた。攻守交代だけでなく、凡退してベンチに戻るときも気を抜かず、ダッシュだった。
「球場の外には大変な生活を送っている人たちが大勢いる。僕たちは野球をやらせてもらっている立場。せめて一生懸命プレーする姿を見せよう」。そんな意思の表れだった。
監督として土井が立つ学校のグラウンドには今、「全力疾走」の4文字が掲げられている。15年前の記憶をひもとき、土井は言う。「生徒たちに野球ができる喜びを伝えたい」
被災地で開催された震災センバツ。賛否に揺れた特別な大会は高校野球の「原点」となり、今に受け継がれている。
(敬称略)
(松本大輔、山本哲志)
=おわり=
2010/1/23