1995年1月17日。強い余震が続く中、日本高校野球連盟事務局長の田名部和裕=現日本高野連特命嘱託、63歳=は、甲子園球場に向けてミニバイクを走らせていた。
西宮・仁川の自宅から程近い山陽新幹線の高架が崩落していた。阪神高速神戸線は横倒しになっていた。「町が町の体をなしていない。4、5年は甲子園で野球ができないかもしれない」。春夏の甲子園大会で運営を指揮する田名部は絶望感に襲われた。
芦屋川近くのマンションに居住していた日本高野連会長の牧野直隆=故人、2006年死去=の無事を確認した後、田名部は甲子園を目指した。消防、救急のサイレンはまだ鳴り響いていた。家屋が軒並み倒壊していた。足が震えた。とても甲子園が無事だとは思えなかった。
西宮・今津を過ぎたあたりだった。田名部は目を凝らした。「鉄塔が立っている…」。甲子園の照明塔は高さ30メートル超。球場の全景は見えなくても塔は遠くからでも確認できた。だが、にわかには信じられなかった。
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甲子園球場の球場長、竹田邦夫=現阪神タクシー社長、59歳=は西宮市内の自宅で激しい揺れに見舞われた。後に全壊と認定された自宅を心配する以上に、甲子園を案じた。
「甲子園は大正時代の建物や。つぶれたんちゃうか」
震災発生から1時間も過ぎていない午前6時半、竹田は球場事務所の電話を鳴らした。不安に駆られながらコールを待った。しばらくして常駐の警備員が電話口に出た。
竹田は恐る恐る聞いた。「どうだ?」。警備員は力強く答えた。「大丈夫です。甲子園はしっかり立っています」。竹田から安堵(あんど)のため息が漏れた。
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正午すぎ、田名部は甲子園球場の正面口にたどり着いた。照明塔だけでなく、ツタに覆われた外壁も威容を保っていた。
「先ほど球場長からも連絡がありました。どうぞ中へ」。警備員に促され、田名部は球場内に足を踏み入れた。バックネット下の薄暗い通路を抜け、グラウンド出入り口がある一塁側ベンチへ歩を進めた。
ベンチ横の数段の階段を上がると、視界が開けた。スコアボード、アルプス席、銀傘…。聖地を彩るすべてが、何事もなかったかのようにたたずんでいた。見上げれば澄み切った青空が広がっていた。左翼席の向こうには夏を思わせる白い雲が浮かんでいた。
マンモススタンドが球場の外で響くサイレンをかき消していた。静かだった。いつもの悠然とした甲子園だった。
田名部はつぶやいた。「いつかまたここで野球ができる」。目からは涙がこぼれ落ちた。(敬称略)
2010/1/17