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 甲子園球場の地元自治体、西宮市長の馬場順三=前市長、84歳=は震災発生以来1カ月近く、市庁舎に泊まり込み、陣頭指揮を執っていた。

 市内の被害は甚大だった。甲子園球場から西へ数百メートルの甲子園高潮町などで、阪神高速の橋げたが落下した。JR甲子園口前の7階建てのビルが崩れた。仁川百合野町では地滑りで大量の土砂が民家を押し流した。

 避難者は4万人を超えていた。その受け皿はどうするのか。全壊家屋は3万4000世帯。無数のがれきの処理はどうするのか。市の災害対策本部長として馬場は追い立てられていた。

 復旧・復興に全力を注ぐため、予定していた事業も大きく見直した。4月に迎える市制70周年を記念したイベント、式典は軒並み中止・縮小した。その数は50以上。夏の恒例行事だった西宮浜での花火大会、市民まつりも、震災直後に開催断念の方針を固めた。

 市民生活の復興が最優先という思いは当然あった。だが、馬場は一抹の不安を覚えた。「このまま『何もかも中止』で前に進むのだろうか」

    ◆

 日本高野連と毎日新聞社がセンバツ開催に向け、準備を進めている情報は、馬場の耳に入っていた。

 市中央部に比べ、浜手の甲子園球場周辺の被害は壊滅的ではなかった。球場の損傷もスタンドの一部に亀裂が入った程度だった。

 大会開催となれば、全国から観客や応援団が車、バスで押し寄せ、復興車両の通行を妨げるおそれがあったが、主催者からは「交通対策では万全を期す」との意思が示された。開会式は簡素化し、ブラスバンドによる鳴り物の応援も自粛するとのことだった。

 日本高野連会長の牧野直隆、同事務局長の田名部和裕は被災者の一人でもあった。震災はひとごとではなく、被災地でセンバツを開催する重みを十分に理解していた。示された細やかな配慮から、馬場は主催者の姿勢をくみ取った。

 「センバツと夏の甲子園大会は西宮にとって特別なもの。全国から送ってもらった救援物資のお返しという意味もある。復興を発信するチャンスではないか」。被災自治体の首長として馬場はそう判断した。

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 2月15日、馬場は日本高野連と毎日新聞社の訪問を待っていた。先方の用件は「センバツ開催の了承」ということは分かっていた。馬場の気持ちはほぼ固まっていた。ただ、被災者が全面的に歓迎できる状況ではないことも理解していた。

 主催者が庁舎に到着する直前、市長室に電話が入った。声の主は兵庫県知事の貝原俊民=前知事、76歳=だった。貝原は言った。「地元としてできるだけ協力してあげたらどうですか」

 同じ被災地自治体の首長が自分と共鳴した。馬場は気持ちの整理がついた。(敬称略)

2010/1/21
 

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