震災発生から1週間あまり。日本高野連と毎日新聞社は、大会開催への可能性を探り始めていた。
被災地の状況は深刻だった。西宮市内の犠牲者は1000人に及び、全壊・半壊家屋は6万1000世帯に上った。球場への主要アクセス、阪神電鉄は震災発生から10日目に甲子園-青木駅(東灘区)間が復旧したが、以西は不通。JR、阪急も神戸線全通の見通しが立たなかった。
日本高野連事務局には、一般のファンから開催の賛否に関する電話が続いていた。どちらかといえば賛成派が多かった。だが、事務局長の田名部和裕は、うのみにはしなかった。「被災者はまだ電話をかけてこられる状態じゃない」
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事務レベルの討議が続く中、田名部は究極の選択肢に考えが及んだ。
「甲子園でやらないといけないのか」
センバツは第2回大会から一貫して甲子園球場で開かれてきた。代替開催は前例がなく、高校野球の根底を覆す構想だった。だが、自身も西宮市内で被災した田名部は「甲子園ありき」の考え方に抵抗があった。
会長の牧野直隆の同意を受け、田名部は「東京ドーム」に打診した。収容人員4万7000人は甲子園と同クラス。代替球場としては十分だった。センバツ会期中に予定されたプロ野球オープン戦などについても、ドーム側からは「日程は調整してもいい」との返答があった。
だが、出場32校の選手宿舎の手配が難航した。開幕まで2カ月を切っている段階で都内のホテル、旅館の確保は厳しかった。加えて大会中の各校の練習場所を押さえることも難しく、「ドーム開催」は幻と消えた。
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毎日新聞大阪本社事業本部長の鳥居宏司は世論に神経をとがらせていた。
かつて同社阪神支局の記者だった鳥居は昭和50年代、甲子園浜の埋め立て問題を取材した経験があった。「自然を守ろう」という住民の粘り強い訴えで、行政の計画は見直された。
住民運動の底力を知っていた鳥居は、担当者を球場周辺の自治会に足を運ばせ、被災者感情に目を配らせた。「今回は『やらせていただく』大会だ。地元から反対があれば開催できない」。鳥居は部下たちにそう繰り返した。
地元だけでなく、東京本社と連絡を取り、永田町にもアンテナを張った。地元選出の有力議員が反対を示唆しているとの情報も入った。「国会議員が『もってのほか』と発言すればどうしようもない」。鳥居は中央の言動にも注意を払った。
2月8日、参議院予算委員会で首相の村山富市=現社民党名誉党首、85歳=が答弁した。「被災された方に元気を出していただくためにそれなりの意味はあるのではないか」。国政から追い風が吹いた。(敬称略)
2010/1/19