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 大震災で3月に予定されたセンバツは「中止」の可能性が取りざたされていた。

 震災発生から3日後の1月20日、大阪市内で開かれたセンバツ運営常任委員会で、出場校選考委員会(当初予定2月1日)の延期が決定された。さらに、1月26日の臨時運営委で開催可否の結論は先送り。主催者は震災から1カ月後の2月17日まで最終判断を持ち越し、「事態を静観する」とした。

 だが、それに並行し、開催に向けた動きがひそかに進んでいた。

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 震災当日から2日後の1月19日。毎日新聞大阪本社事業本部長の鳥居宏司=現同社OB、67歳=に、社の上層部の意向が内々に伝えられた。

 「センバツは開催の方向で努力してほしい」

 春の甲子園は日本高野連と毎日新聞社の共催で開かれる。高野連側の現場トップの田名部に対して、新聞社側の運営責任者が鳥居だった。

 震災発生から3日目。犠牲者の数はまだ増えていた。宝塚市内の自宅で激震に揺られ、被災地に直面していた鳥居に戸惑いはあった。だが、組織の方針に個人的な心情は持ち込めない。大正期から続くセンバツの歴史もかみしめた。

 「社会的使命がある。伝統の事業を途切れさせるわけにはいかない」。鳥居は上層部の内意に沿い、腹を決めた。

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 開催を目指す上で鳥居はまず、ある人物の意思を確認しなければならなかった。

 日本高野連第4代会長、牧野直隆=故人、2006年死去。1981年に会長に就任し、全国4000有余校が加盟する巨大組織を束ねてきた。明治生まれで、後に野球殿堂入りを果たす重鎮の意は絶大だった。

 1月23日。鳥居は部下を伴い、大阪・福島のホテルを訪れた。芦屋川近くの自宅で被災した牧野が、そこに身を移していた。

 牧野は部屋で一人だった。「会長、震災からまともに食事されていないんじゃないですか? 夕食でもどうです」。何げない言葉で鳥居は牧野を誘い出した。

 鳥居の部下を含めた3人で大阪・北新地に出向き、鍋をつついた。たわいない会話で場を保ちつつ、鳥居は核心に触れるタイミングを待った。

 牧野の酒がいつもより進んでいるように見えた。何度か杯を傾けるにつれ、その表情はかすかに上気し始めていた。「ところで、会長…」。鳥居が本題を切り出した。「このたびのセンバツはやれるでしょうか」

 一呼吸を置き、牧野が口を開いた。「何が正しい判断かというと大会をやることだ。開催することが毎日新聞のかい性だろうが」。温厚な牧野にしては珍しく、強い口調だった。

 鳥居は部下と目を合わせ、うなずいた。「これで決まりやな」(敬称略)

2010/1/18
 

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