連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

  • 印刷

 2月に入り、主催者が大会決行へ傾く中、出場が有力だった神港学園監督の北原光広=現同校監督、56歳=の胸中は複雑だった。

 53人の部員全員の無事を確認できたのは、震災から10日が過ぎた1月27日。被災地の惨状を目の当たりにした北原は、漏れ聞こえる大会開催への動きに抵抗感があった。

 「センバツをしたからといって救援物資が増えたり、被災者に勇気が出たりするのか。被災者の気持ちを逆なでしてしまうのなら、むしろやってはいけない」

 ただ、同校は前年秋の近畿大会で準優勝し、センバツ出場が確実視されていた。選手たちの心情を察すると心苦しかった。

 午前中の授業が再開した2月1日、北原は部員を集め、午後の数時間をボランティア活動に充てることを提案した。「野球はいつかできる。今やれることをやろう」。翌2日から避難所で畳運びなどを始めた。

 選手の行動は被災者に感謝された。一方で、マスコミの注目を集めたことで反感も買った。「甲子園に出たいがための売名行為やろ」。心ない言葉も浴びた。

    ◆

 兵庫からは神港学園のほか育英、報徳の2校も出場候補に名を連ねていた。

 報徳は震災で中等部の校舎1棟が全焼。グラウンドも至る所に亀裂が走り、地面の割れ目にノックバットが突き刺さっていた。監督の永田裕治=現同校監督、46歳=はバイクにまたがって被災地を回り、生徒の安否確認に追われていた。

 前年に監督に就任した永田にとって出場校に選出されれば、初の晴れ舞台だった。近畿大会では準々決勝で優勝したPL学園(大阪)に惜敗。吉報が届く可能性があったが、そこまで考える余裕もなかった。「選手たちが元気を取り戻してくれれば、それでいい」

    ◆

 育英は神戸市長田区の学校体育館が避難所になり、500人以上の被災者が身を寄せていた。監督の平松正宏=現福岡経済大監督、49歳=は学生寮に泊まり込み、大型免許を生かして救援物資の搬送に明け暮れていた。

 練習再開のめどすらつかない中、平松に一本の電話が入った。懇意にしていた県外の監督だった。「平松君から『センバツを開催してほしい』と声を上げてもらえないか」。センバツ出場が濃厚だったその監督はさらに続けた。「被災地ではない所の学校が『やりたい』とは言えないからね」

 受話器を握りながら、平松は言葉を失った。目の前に、住まいを、そして家族を奪われた人たちがいる。被災の現場を知らないとはいえ、その監督の依頼はあまりにも無神経に思えた。

 「気持ちは分かる。けど、いくら頼まれてもそれは無理だ」。県外との温度差を知り、平松は口を閉ざした。(敬称略)

2010/1/20
 

天気(9月6日)

  • 33℃
  • 25℃
  • 10%

  • 34℃
  • 22℃
  • 10%

  • 35℃
  • 25℃
  • 10%

  • 36℃
  • 23℃
  • 10%

お知らせ