センバツ開催の可否を決定する2月17日を前に、日本高野連と毎日新聞社は同13日に合同幹部会議を開き、開催を内定した。
物理的な課題はほぼクリアしていた。復興作業の妨げが懸念された応援バスの乗り入れは禁止した。JR大阪駅近くに専用駐車場を設け、選手も含めて鉄道での球場入りを原則とした。甲子園修復のめども立ち、阪神電鉄からは大会に支障がないことが報告された。
開催内定の翌14日、主催者は鳴尾連合、甲子園網引町、浜甲子園団地など周辺自治会に説明。「大会中止で球児の夢を奪うことの方が心苦しい」。地元からも強い異論は出なかった。最終決定まで残すは、被災自治体首長の理解だけだった。
◆
2月15日、日本高野連と毎日新聞社は兵庫県庁を訪れた。両者は兵庫県知事の貝原俊民=前知事、76歳=の意向は確認できていなかった。貝原が西宮市長の馬場順三と、開催で同調していたことも知らなかった。
庁内の応接室に現れた貝原は、濃いブルーの防災服に身を包んでいた。幾分やつれているように見えた。「かなり疲れておられる」。高野連事務局長の田名部和裕は、震災発生以来の知事の激務を悟った。
大会理念、開催日程、交通対策、余震対策など、被災地に配慮した開催要件を説明した。一通りの話を聞き終えた貝原は静かに立ち上がり、窓の外に目を向けた。田名部らはかたずをのみ、知事の言葉を待った。
貝原はおもむろに口を開いた。「被災者も桜の花が咲くころに明るいニュースを待っていると思います」
それから2日後、日本高野連と毎日新聞社は記者会見を開き、センバツ開催を正式に表明した。
◆
1995年3月25日、第67回選抜高校野球大会は予定通り開幕した。
開催に慎重だった育英監督の平松正宏は前を向いていた。大会前、同校体育館に避難していた被災者が甲子園を祝い、カンパを集めてくれた。避難所のリーダーから募金箱を受け取った時、平松は涙があふれた。「被災者の人たちと一緒に戦えるんじゃないか」
毎日新聞大阪本社事業本部長の鳥居宏司は、辞表を胸ポケットに収めていた。「余震が起き、甲子園で負傷者、死者が出たら責任を取らなければならない」
田名部は震災直前、全日本高校選抜チームの豪州遠征に同行した。「センバツで再会しよう」。そう約束を交わして選手たちと別れた後、震災が起きた。開催か否かで悩んだ時、春を待つ彼らの顔が浮かび、田名部は背中を押された。
大会歌「今ありて」のハーモニーが、小雨交じりの開会式を優しく包んだ。
「♪今ありて 未来も扉を開く 今ありて 時代も連なり始める」
葛藤(かっとう)を乗り越え、球史は紡がれた。「今ありて」-。作詞家、阿久悠=故人、2007年死去=の詞が、それぞれの胸に深く染み込んだ。(敬称略)
2010/1/22