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(5)体験を伝える 「感謝の気持ち込めて」
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「あの日」を伝えたい。映像を撮った神子素さん=洲本市物部(撮影・大山伸一郎)
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「あの日」を伝えたい。映像を撮った神子素さん=洲本市物部(撮影・大山伸一郎)

「あの日」を伝えたい。映像を撮った神子素さん=洲本市物部(撮影・大山伸一郎)

「あの日」を伝えたい。映像を撮った神子素さん=洲本市物部(撮影・大山伸一郎)

 各地に吹いた震源地の風。その源をたどりたい。

 あの日。1995年1月17日早朝、淡路では珍しく雪が舞った。洲本市の自宅で寝ていた地元サンテレビジョンの報道カメラマン神子素孝輝(みこそ たかき)さん(66)を大きな衝撃が襲った。「乗っていたエレベーターごと地面にたたきつけられたようだった」。地震だ。すぐにカメラを手に外へ出る。

 「震源地は北淡町らしい」。情報を頼りに車で北へ。町に入ると、道路が倒れた家でふさがれている。「おーい、ばあさーん」。あちこちで救出活動が始まっている。

 がれきの隙間から動く手がのぞく。法被姿の消防団員が取り囲む。土まみれの女性が姿を現す。大丈夫、生きている。

 「ふるさとの淡路がひどいことになった。記録に残さなければ」と4本のテープを回し続けた。後に編集されて1本の貴重な記録テープになる。

    ◆

 当時の北淡町長、小久保正雄さんはラジオニュースでアナウンサーが「阪神大震災」と伝えるのを耳にした。

 北淡だけで39人が亡くなった。大きな野島断層も出現している。ここは震源地だ。「このままでは淡路の被害が忘れられてしまう」。小久保さんは政府に、この大地震を「阪神・淡路大震災」とするよう強く求めた。

 一方、小さな町には全国から支援が届き、ボランティアが続々と駆けつけた。「私たちは孤立していない」。山積みの物資とボランティアの姿が被災した住民を勇気づける。小久保さんは町職員に「どんなに復旧、復興に忙しくても視察はすべて受け入れよう。感謝の気持ちを込めて震災体験を伝えよう」と語った。小久保さんは昨年6月、76歳で他界した。

 震災の年の春、防災担当になった富永登志也さん(53)に体験を伝える大役が回ってきた。北海道、九州、四国。要請があれば神子素さんが撮影した記録テープを携え、どこへでも出かけた。

 富永さんはいつもこの言葉から語りを始める。「あの時は本当にありがとうございました」。そして深く頭を下げる。

 地震のメカニズムや専門的な防災の話は一切しない。がれきに埋まった住民をみんなで助け出したこと。1人暮らしの高齢者の姿を求めて消防団員が駆け回ったこと。体験したことだけを語る。

 富永さんの手元に9冊のノートが残る。視察で出会った人、講演で訪れた町の記録である。震災から7年が過ぎたころ、語り部役は、北淡震災記念公園の米山正幸さん(44)に引き継がれた。富永さんが言った。「難しい言葉は使わず、ありのままを伝えてほしい」

 それが北淡スタイルだ。(宮本万里子)

2011/1/16
 

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