毎年1月17日の朝、淡路市の北淡震災記念公園では旧北淡町の住民たちが歌声を響かせる。一昨年はアンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓 十五の君へ~」を歌った。
今年の歌は「故郷(ふるさと)」だった。「うさぎ追いし かの山」。望郷の思いをうたう歌詞が居合わせた人の気持ちに寄り添う。
旧北淡町は阪神・淡路大震災の後、すっかり変わった。
中心地の富島(としま)地区は長く漁師町としてにぎわった。「網道」と呼ばれる幅約2メートルの細い路地に木造家屋がひしめき、飲み屋や料理旅館が並んだ。「家にいても外を歩いていても、誰かの声が聞こえた」と、北淡震災記念公園職員の米山正幸さん(44)は懐かしむ。
だが漁業の衰退とともに人口減少が始まる。そこを震災の揺れが襲う。
区画整理事業で災害に強いまちづくりを目指すが、完了まで14年間かかった。見切りをつけた住民が神戸・阪神間へと移っていく。1990年、富島の人口は約2500人(約800世帯)だったが、今年1月1日現在で約1500人(約650世帯)にまで減った。
区画整理で道幅が約4メートルに広げられた結果、隣の家が遠のく。「家が新築されてエアコンが備え付けられ、窓は閉め切られたまま。話し声は聞こえず、ひっそり静まり返る町になった。若者は仕事を求めて都会に出て、高齢化が進む。かつての絆は失われつつある」。富島にある興久寺の住職、禰宜田龍真(ねぎた りゅうしん)さん(47)が言った。
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そんな富島の町を震災前から見つめてきた医師がいる。北淡診療所長で神経内科医の井宮雅宏さん(52)だ。兵庫県の派遣医として90年に北淡へ赴任した。気がつけば20年、今では北淡が第二の故郷となった。
95年の震災が井宮さんの人生を大きく変えた。
自宅マンションが全壊したため避難所の町民センターに入った。仮設診療所を開設し、保健師と2人で手当てを始める。診療所は3月末まで設けられ、多い日で約200人が受診した。
特徴的だったのは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの精神的な症状を訴える人がいなかったこと。「みんなで苦しみを共有している。その一体感が住民に孤独を感じさせなかったのかもしれない」と井宮さんは言う。
自身も避難所から仮設住宅へと移り、住民たちと寝食を共にした。大きな災害を一緒に乗り越え、この町に暮らす人々に愛着が湧く。「震災がなければ、ここには残っていなかったと思う」
その井宮さんが、やがて震源地の風を起こす一人となる。(宮本万里子、三島大一郎)
2011/1/18