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耐震化の重要性を説く稲毛政信さん。最近の講演は、空席が目立つ=神戸市中央区吾妻通4(撮影・中西大二)
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耐震化の重要性を説く稲毛政信さん。最近の講演は、空席が目立つ=神戸市中央区吾妻通4(撮影・中西大二)

耐震化の重要性を説く稲毛政信さん。最近の講演は、空席が目立つ=神戸市中央区吾妻通4(撮影・中西大二)

耐震化の重要性を説く稲毛政信さん。最近の講演は、空席が目立つ=神戸市中央区吾妻通4(撮影・中西大二)

 元神戸市職員の稲毛政信(68)=西宮市=は阪神・淡路大震災の13年後、一冊の本を出版した。

 タイトルは〈アナタの家は大地震で倒れる〉。あえて刺激的にしたのには理由がある。

 「旧耐震住宅の本当の恐ろしさを分かってほしい。私と同じ後悔をしないために」

     ■

 1995年1月17日。稲毛は阪神電鉄西宮駅から北へ1キロの自宅で寝ていた。築50年の木造2階建て。義母と同居するため3年前に移り住んだ。

 飛行機が落ちたような衝撃音。離れの平屋から飛び出すと、30坪ほどの庭に母屋の屋根が落ち、瓦が散乱していた。長男和太(かずた)=当時(17)=が下敷きになって死んだ。

 だが、1級建築士の資格があり、神戸市交通局で地下鉄の設計管理を担っていた稲毛は復旧作業に忙殺される。

 自宅は粉々に崩れたが、隣家は無事だった。この極端な違いは何か-。疑問を解くため、木造住宅の歴史を調べ始めたのは震災から10年後、定年退職の直前だった。

     ■

 妻に聞きながら、崩れ落ちた自宅の平面図を再現した。

 生け垣に囲まれた庭を楽しめるように、南側の3部屋が開口部となり、壁がなかった。その2階に、本棚やタンスのある重い子ども部屋が乗っていた。風通しと採光を重視する典型的な和風建築だった。

 建築当時の法律を調べた。耐震基準はあったが、81年に改正された新基準に比べ、必要な壁の量は半分以下だった。隣家ができたのは震災の10年前。強度に2倍以上の差があった。

 稲毛は再建した家に「木造住宅耐震改修推進研究所」の看板を掲げ、全国で講演を続ける。関心が薄れてきたのか、年々、依頼は減っている。

 「もどかしい、歯がゆい思いだ。耐震改修をすれば、あなたの命は守れるのです」

     ■

 30年前から木造住宅の耐震性を世に問う建築家がいる。木構造建築研究所(奈良県御所市)の田原賢(53)。

 木造の耐震工学を独学し、80年代、関西の有名建築事務所に売り込んだが、「デザインの邪魔になる」と見向きもされなかった。

 地震の日、自転車でJR六甲道駅南に駆け付けた。田原が設計した3階建ての民家は、周囲が壊滅する中、ぽつんと、無傷で立っていた。

 猛烈な後悔に襲われた。「自分の建てた家が安全ならそれでいいと考えていた。だが、それは間違いだった」

 怒りは建築行政と建築業界にも向けられた。命を奪った旧耐震住宅は「既存不適格」と呼ばれ、建った時点では「適法」だったため、対策の外に置かれていた。

 「安全基準を満たさない『危険な住宅』だと国がはっきり言えば、耐震化した人もいただろう。安全性に無関心だった建築家の責任も重い」

=敬称略=

(木村信行)

2014/9/2
 

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