1891(明治24)年10月28日、早朝。マグニチュード(M)8・0の激震が岐阜県を襲った。
濃尾地震。阪神・淡路大震災を上回る日本最大の内陸直下地震だ。死者約7千人、全壊14万棟の記録が残る。
直後の日本建築学会。明治の代表的な建築家、ジョサイア・コンドルはこう呼び掛けた。
「日本の建物は世間の人が思っているほど地震に強くない。耐震的にするには、まず壁に筋交いを入れ、接合部を金具で留めることだ」
木造住宅耐震工学の第一人者、東京大名誉教授の坂本功(71)は、この言葉を胸に刻む。
「あれから100年。私たちはこの基本を守れていなかった」
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耐震化の法整備は、大地震が起きるたびに改善されてきた。だが、その歩みは遅い。
日本で最初に「耐震」が法制化されたのは、関東大震災(1923年)の翌年に改正された市街地建築物法だ。3700人が犠牲になった福井地震(48年)の2年後に建築基準法ができ、耐震に必要な壁の量を初めて規定。宮城県沖地震(78年)後の81年、現在の「新耐震基準」ができた。
この結果、震度5の揺れに耐えればよかった家は、震度6強でも倒壊しない構造が求められるようになった。
「時代の先端を走る高層ビルに比べ、脚光を浴びにくい木造は専門家が少ない。個人の家は、安全よりも安く大量に供給できる経済設計が重視された」。阪神・淡路で長男を亡くした1級建築士、稲毛政信(68)=西宮市=は指摘する。
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現行の法律では“違法”状態といえる「既存不適格」の家を耐震化すれば、どのぐらいの揺れに耐えられるのか。
坂本は三木市の実大三次元震動破壊実験施設(E-ディフェンス)で2度、実験をしている。
旧基準で建てられた2棟の民家を用意。一方に筋交いや壁の増設、金具の固定を施した。阪神・淡路と同じ地震動で揺らす。ゴーという激しい音とともに、無補強の家は土煙を上げて崩れたが、補強済みの家は残った。
効果は歴然だった。
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坂本は今、新たな問題に目を向ける。「阪神・淡路の直後は言える雰囲気ではなかった。今なら大丈夫だろう。『81~00問題』だ」
実は、阪神・淡路では新基準でも倒壊した家があった。特に目立ったのが2000年までの家。理由は建築基準法を読み比べれば分かる。
81年の基準では「壁は釣り合いよく配置。接合部は金具を使用」とされているだけだ。00年の再改正でようやく、壁のバランス計算や金具の具体的な種類が示された。
「つまり、00年までは工務店の技術と良識に委ねられていた。新基準でも耐力が足りない家はある」
それが注目されるには、次の巨大地震を待たねばならないのか。
=敬称略=
(木村信行)
2014/9/3