神戸市兵庫区の「せのお医院」。院長の妹尾栄治(54)が開業したのは、父豊=当時(70)=の死がきっかけだった。
阪神・淡路大震災で、須磨区にあった豊の自宅は全壊した。幸い大きなけがはなかったが、豊は若いころに肺を手術した影響で常に酸素吸入が必要だった。被災地にとどまることは難しく、姫路市を経て、2日後に徳島県の親類宅へと避難した。
「取りあえず一安心、と思った」と妹尾。だが5日後、親類からの電話に耳を疑う。「お父さんの足の腫れがひどい」。心不全の兆候だった。駆けつけると、意識は既に混濁していた。震災から10日後に息を引き取り、父は「関連死」の一人となる。
妹尾は当時、三木市民病院(三木市)の脳神経外科で多くの手術を手掛けていた。専門医として技術を磨くことが使命と信じていた。だが、父の死に無念が募った。
「患者さんの全身を診る視野の広い医師に」と決意し、開業して16年。地域医療の担い手として往診などに飛び回る。
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阪神・淡路の犠牲者の名を刻む神戸・三宮の「慰霊と復興のモニュメント」。神戸市西区の森岡純代(74)は震災の12年後、夫良昭=死亡当時(59)=の名を刻んだ。
震災で住んでいた須磨区の文化住宅は全壊した。夫や娘と約半年間、中学校で避難生活を送った。西区の仮設住宅に入居し、一息ついたのもつかの間、1995年10月、良昭が突然倒れた。
診断はくも膜下出血。意識は戻らず、約1カ月後に亡くなった。長女の結婚式の直前だった。
振り返れば、5月ごろから発熱が続いていた。それでも、良昭は長田区で経営していた靴材料の裁断工場に通い続けた。鼻血を出したこともあったが、本人は「何ともない」と言うばかりだった。
「せめて娘の結婚式まで生きていてほしかった」と純代。神戸市が認定する関連死には含まれていないが、「遠因死」としてモニュメントに名を残す希望がかなった。毎年1月17日、その場所で手を合わせる。
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阪神・淡路の16年後に起きた東日本大震災。
原発事故で避難指示区域となった福島県川俣町山木屋地区に住んでいた嘱託社員渡辺彦巳(ひこみ)(61)=福島市=は、震災から約2年の間に相次いで両親を亡くした。
2011年3月の事故直後、父の義亥(よしい)=当時(87)=と母のマチ=当時(84)=は埼玉県の娘宅に避難。義亥はそこで体調を崩した。一時帰宅した4月初め、容体が悪化。帰宅2日後に亡くなった。
母マチの死は、その2年後だ。埼玉県への避難後、川俣町の介護施設から福島市の高齢者用住宅へ。次第に食べ物を受け付けなくなり、渡辺に「山木屋の土の中に埋めてけろ」と懇願した。
「おふくろは本当にしんどかったんだと思う」と声を落とす渡辺。父は「関連死」と認定されたが、母の死は認められなかった。
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阪神・淡路大震災で初めて光が当たった「震災関連死」。公式に認められただけで、阪神・淡路では921人。東日本では3千人を超える。災害で助かった命が、今も奪われ続けている。=敬称略=(磯辺康子、藤森恵一郎)
【災害(震災)関連死】 地震や津波などによる「直接死」ではなく、避難生活での体調悪化など間接的な原因で死亡すること。市町村が認定すると、直接死と同様に最高500万円の災害弔慰金が遺族に支払われる。東日本大震災後、復興庁は「負傷の悪化などで亡くなり、災害弔慰金の支給対象となった人」と定義しているが、具体的な認定基準はない。
2014/9/17