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東日本大震災後、多くの患者で混雑する石巻赤十字病院。津波を免れ、災害医療の拠点となった=2011年3月13日、宮城県石巻市蛇田
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東日本大震災後、多くの患者で混雑する石巻赤十字病院。津波を免れ、災害医療の拠点となった=2011年3月13日、宮城県石巻市蛇田

東日本大震災後、多くの患者で混雑する石巻赤十字病院。津波を免れ、災害医療の拠点となった=2011年3月13日、宮城県石巻市蛇田

東日本大震災後、多くの患者で混雑する石巻赤十字病院。津波を免れ、災害医療の拠点となった=2011年3月13日、宮城県石巻市蛇田

 「このままでは救護の空白地帯が生じる」

 東日本大震災から1週間後の宮城県石巻市。当時、石巻赤十字病院の外科医だった東北大病院教授、石井正(51)は危機感を募らせていた。

 全国の病院や医師会から、次々に救護班が駆けつけ始めた。だが、活動はばらばらだった。救護班が重複する避難所がある一方、医療支援が全くない場所もあった。阪神・淡路大震災で多発した「関連死」への懸念が頭をもたげた。

 震災発生の前月、宮城県から、災害時の医療支援を統括する「災害医療コーディネーター」の委嘱を受けていた石井は、対策に乗り出す。拠点の石巻赤十字や全国の救護班などで「石巻圏合同救護チーム」を結成。自ら統率する任に就いた。

 石巻、東松島市と女川町の計300カ所以上の避難所の衛生、食料の状況などを継続的に調べ、データを記録。避難所の分布などに応じて区域を分け、全国の病院や医師会などを割り振った。

 「医療崩壊という最悪の事態だけは避けられた」。石井は述懐する。

     ■

 石巻の取り組みは、医療関係者の間で「今後の災害医療のモデル」と評価される。それでも、関連死を防ぐことは難しかった。

 震災の10日後、避難所となった石巻中学校(石巻市)に入った兵庫県医師会会長で外科医の川島龍一(70)=神戸市東灘区=が目にしたのは、高齢者や障害者の厳しい生活だった。

 義肢を津波で流された人、目の不自由な人、寝たきりで床ずれを起こした人ら7人が保健室に集められていた。あるのは簡素なベッドやソファだけ。暖房もない中、冷たい床の上に敷かれた布団に寝ている人も。見かねた川島らは行政に掛け合い、定員を超過してでも介護施設や病院に7人を移すよう要請した。

 阪神・淡路以降、災害時の要援護者支援の重要性を訴えてきた川島。だが、十数年たっても対策が進んでいない状況にがくぜんとした。

 東日本の後、川島は国が検討する「福祉避難所船」の実現に向け、兵庫県内の医療・福祉関係者らと議論を重ねる。災害時に国が民間の船を借り上げ、医療や介護機能を集める構想だ。

 「大型船には風呂やトイレ、個室が備わっている。救護所を設ければ、要援護者の需要に応えられるのではないか」

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 石巻市での関連死は、今年8月末時点で259人に上る。このうち、震災から1週間以内に亡くなった人が60人。約23%を占める。

 阪神・淡路以来、関連死の研究を続ける神戸協同病院(神戸市長田区)院長の上田耕蔵(63)は「初めの1週間は医療や介護の人手、物資が決定的に不足する。最後に頼りになるのは共助、つまり近所の助け合いだ」と指摘する。

 関連死を防ぐための医療体制、支援の仕組みをどう構築するのか。医師たちの模索は続く。

=敬称略=

(藤森恵一郎)

2014/9/19
 

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