東日本大震災では、高齢者を守る「最後のとりで」が機能を失った。
133人の利用者がいた介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」(宮城県気仙沼市)。安全とされていた2階にも津波が押し寄せた。施設長だった猪苗代(いなわしろ)盛光(66)=気仙沼市=は、胸まで水に漬かりながら利用者をテーブルの上に引き上げた。目の前で水中に沈んでいく人がいた。
津波で47人が亡くなった。だが、壮絶な死はそれで終わらなかった。
翌日避難した中学校の体育館は、約900人の被災者にストーブがわずか2、3台。極寒の夜、「バタン」と人の倒れる音が響いた。猪苗代が「自分自身もだめかと思った」という極限状態だった。翌朝までに5人の利用者が亡くなった。
阪神・淡路大震災当時、仙台市職員として神戸市の支援に入った猪苗代は言う。「16年たっても、避難所の環境は何ら改善されていなかった」
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福島県では、施設の入所者が避難さえできない状況に追い込まれた。
東京電力福島第1原発から約25キロの特別養護老人ホーム「福寿園」(南相馬市)。住民が次々と避難する中、行政の支援もなく孤立した。
「施設は見捨てられたということ」。運営する南相馬福祉会常務理事の大内敏文(58)は話す。
震災5日後、職員がNHKに連絡し、食料が底をついている窮状を番組で訴えた。横浜市の介護老人保健施設から「受け入れる」と連絡が入り、福寿園など同福祉会の3施設、229人の避難が始まったのは、震災8日後の3月19日だ。観光バスなどで約11時間。21日からさらに、大阪など10都府県に分散避難した。
5月までの2カ月余りで、3施設の28人が亡くなった。普段の年間死者に匹敵する人数だった。
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大災害時、施設はどう機能を維持するのか。
南海トラフ巨大地震の発生時、最大約3メートルの津波が想定される神戸市須磨区。海沿いの特別養護老人ホーム「須磨シニアコミュニティ」は2年前、避難の方針を変えた。
以前は、車いすの高齢者を地域の避難所に移動させる計画だった。だが、東日本を見れば人員不足や交通渋滞で困難なことは明らかだった。利用者は最大で約100人。全員を施設の3階以上に避難させると決めた。
階段に木の板を渡す手作りのスロープを考案し、毎月の訓練で改良を重ねる。備蓄食料は1階から4階へ移し、屋上に太陽光発電設備も置いた。
「災害後、当面は丈夫な建物内にとどまり、命を守る。訓練を重ねて出した結論」と、施設長の渡辺五男(いつお)(67)は言う。
神戸市老人福祉施設連盟(107カ所)は2年前、加盟施設を「福祉避難所」とする協定を同市と結んだ。各施設には、防災無線が配備された。
福祉避難所は要援護者を守る要だ。だが、「調整窓口となる区役所との連携、職員の確保など課題は多い」と同連盟事務局長の畑野守(69)。
阪神・淡路を経験していない施設も増えた。東日本の現実を受け止め、次の災害に生かすために、危機感の共有が急がれる。
=敬称略=
(磯辺康子、藤森恵一郎)
2014/9/20