【母眠る地 今も募る思い】
阪神・淡路大震災の翌日、遺骨を集めていた少年-。写真を持って捜し続けると、少年がいた場所の、すぐそばで家族の遺骨を拾っていたという男性と出会った。
当時、神戸市長田区菅原通2丁目の自治会長を務めた魚住哲也さん(72)。現在は同市須磨区に住む。
少年の写真を見せると、同じ日に撮影した別の写真にくぎ付けになった。
「これ、お母さんのために、私らが作ったやつ」
陶器のカップに、白い骨。赤とピンクの花を供えている。
母秀子さん=当時(76)=が、5人家族のうち、ただ一人犠牲に。木造2階建ての1階で下敷きになった。
「顔が見たい。その一心。自分も燃えそうになるまで、がれきをどけたんや」
自宅は瞬く間に炎にのまれた。翌日、弟らと素手で遺骨を拾い集め、焼け跡に転がっていた自作の丹波焼のカップに入れた。妻が持ち出した仏具を置き、祭壇をこしらえた。少年は、近くにいたはずだが、記憶にない。
菅原通2丁目は区画整理の網をかぶらなかった。近隣の住民と一緒に自宅を共同再建すれば、行政の補助を得られると聞き、ちりぢりになった住民を訪ね歩いた。神戸・ポートアイランドや加古川市の仮設住宅に足を延ばしたが、あと一歩で合意に至らず、戻ることをあきらめた。
魚住さんと御菅地区を歩いた。自宅跡には新しい住宅が立つ。向かいの長屋は駐車場だ。寂しげだった魚住さんのほおが緩んだのは、隣に住んでいた男性と出会ったときだった。久しぶりの再会に、会話が弾む。
世話好きだった秀子さんに似たのか、移り住んだ須磨区のマンションでも自治会長を任された。
それでも、今もこの町を訪れる。
「お母さんが眠ってる。古里は何年たっても、ここなんや」
(上田勇紀)
2015/1/10