【助け合いの心 受け継ぐ】
大震災の翌日、青い防寒着を羽織り、焼け跡で遺骨を拾っていた少年がいた-。彼の写真を持って、撮影場所の、すぐ近くに実家があった徳平克三(かつみ)さん(67)=神戸市須磨区=を訪ねた。
「見覚えはないけど、なんか、悲しみを通り越して、乾ききったような表情をしとる」。徳平さんは続けた。「僕らも同じ。涙が出たのはずっと後のことや。直後は、本当にこの世で起こったことなんかって…」
神戸市長田区菅原通2の実家は、母美ゑ子(みえこ)さんと姉嘉子(よしこ)さん=当時(57)=の2人暮らし。全焼し、嘉子さんが亡くなった。
徳平さんが、妻多鶴(たづる)さん(62)、娘2人と駆けつけたときには、実家は見る影もなかった。焼け跡に残されたのは、遺骨と、熱で溶けた小銭だけだった。
あちこちで煙がくすぶる。出会う人たちはみな、うつろな表情だ。遺体安置所になった神戸村野工業高校の体育館で、遺骨だけの検視を終えた。
つらい記憶をたどる中、徳平さんが一つ強調したことがある。それは、最後まで住民が助け合っていたことだ。
あの日、実家近くに住む男性が教えてくれた。「お母さんは逃げとる。でも、お姉ちゃんは、あかんかった」。母は腰を骨折していたが、近所の人に救出された。姉はがれきの下敷きになり、どうしようもなかったという。
「誰がどこに寝ているかも知っているような、長屋の付き合いがあった。御菅だからこそ、母のように生き延びた人も多いはず」
徳平さんはこの町に帰るたびに思う。「一番大事なのは助け合いの心。大好きな町やから、これからも、受け継いでほしい」
取材を終え、再び御菅を歩いた。復興事業を終え、整然とした町並み。どこにでもある神戸の町角だと思っていたが、幾つもの悲しみが埋まっていることに気づく。
遺骨を持っていた、あの少年はまだ見つかっていない。だが、1枚の写真を手掛かりに出会った人たちから、御菅に根付く震災の記憶と教訓を教わった。(上田勇紀)
=おわり=
2015/1/15