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がれきの町で遺骨を集める人ら=1995年1月19日、神戸市長田区菅原通 阪神・淡路大震災で焼け焦げた神戸市長田区・御菅地区
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がれきの町で遺骨を集める人ら=1995年1月19日、神戸市長田区菅原通

阪神・淡路大震災で焼け焦げた神戸市長田区・御菅地区

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  • 阪神・淡路大震災で焼け焦げた神戸市長田区・御菅地区

がれきの町で遺骨を集める人ら=1995年1月19日、神戸市長田区菅原通 阪神・淡路大震災で焼け焦げた神戸市長田区・御菅地区

がれきの町で遺骨を集める人ら=1995年1月19日、神戸市長田区菅原通

阪神・淡路大震災で焼け焦げた神戸市長田区・御菅地区

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【たらいに遺骨「お母さんや」】

 阪神・淡路大震災の翌日に撮影した1枚の写真がある。写真の中の少年は青い防寒着を着て、こちらを見詰める。手には白いタオルでくるんだ金だらい。その中に、黒く焼け焦げた骨が数本入っていた。

 1995年1月18日の午後。当時、神戸新聞のカメラマンだった金居光由記者(57)=現・読者サポートセンター長=が神戸市長田区菅原通で写した。

 町一面にがれきが広がる。家があったのか、商店があったのか。それさえも分からない。焦げた材木を踏みしめると、熱で長靴の底が溶けた。「空襲の跡のよう」。そんなふうに表現する人たちもいた。

 金居は、しゃがみ込んで何かを探している少年に出会った。

 「何してるんや」

 小銭でも拾っているのかと思い、声を掛けた。

 少年は金だらいに集めた遺骨を見せた。

 「お母さんや」

 そう聞いた金居は、はっとして周囲を見渡した。ほかにも、かがみ込んで遺骨を探す人たちがいる。一体何人がここに埋まってるんや-。体の芯から震え、涙がこみ上げた。

   *  *

 それから約20年。青い防寒着の少年が立っていた場所を訪ねた。広い道路が延び、住宅が整然と並ぶ。どこにでもある、神戸の街角。震災の傷痕は見つからない。

 神戸市長田区御蔵通、菅原通一帯の「御菅(みすが)地区」。ここは被災地の中でも、壊滅的な被害を受けた地域の一つだ。町工場や長屋、菅原市場が肩を寄せ合う下町だった。大規模な火災が起こった御蔵通、菅原通3、4丁目などでは8~9割の建物が全半壊。1月17日に御蔵北公園で営む慰霊法要では128人の冥福を祈る。

 多くが復興土地区画整理事業の対象となり、事業が進むにつれてまちは変わった。

 借地暮らしだった住民のほとんどはもとの場所に戻れず、地区外に移り住んだ。震災前、区画整理の対象となる地域には約2千人が暮らしたが、人口は6割程度しか回復していない。写真の少年は、御菅にいるのだろうか。

   *  *

 あの日、筆者は小学6年生だった。兵庫県北淡町(現・淡路市)で地鳴りのような音とともに、家ごと揺さぶられた。同世代に見える少年は今、何を思い、どう生きているのだろう。1枚の写真を手掛かりに彼を訪ね歩くと、激甚被災地の20年が浮かんできた。(上田勇紀)

2015/1/8

 

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