【隣人の死 枯れない涙】
大震災当時の住宅地図を広げる。犠牲になった人の家を蛍光ペンで一つ一つ塗ると、神戸市長田区菅原通3丁目が真っ赤になった。
この町に住む白井政和さん(83)、妻せつ子さん(78)が、隣に住んでいた高齢夫婦の死を話してくれた。
白井さん宅は地震に耐え、臨時の避難所のようになっていた。
「入り入り。これ着て」。着の身着のままで駆け込んでくる近所の人に、衣服を手渡す。そのとき、「ボンッボンッ」。火の粉が窓をたたいた。
外へ出ると、隣に住む男性が、崩れた家屋の下敷きになり動けなくなっていた。見えるのは上半身だけ。男性の妻も埋まっていた。
政和さんは必死で助けようとした。だが、がれきはびくともしない。炎が近づく。男性が叫んだ。「行って行って」。「堪忍な」-。
2日後。自衛隊に掘り起こしの立ち会いを頼まれた。「ここは2人でしたか」。「はい」。せつ子さんが答えた。焦げた鍋に一つ一つ、遺骨が拾われていく。
「肉片が付いた骨もあって…」。話す途中、せつ子さんがおえつを漏らし、手で顔を覆った。政和さんもうつむく。「せめて合掌しよういうてね。線香を立てたの」
震災翌日、この付近で青い防寒着の少年が金だらいに遺骨を集めていた。その写真を見せた。夫婦に見覚えはなかったが、「そうや、みんなこうして、金だらいや鍋に遺骨入れてたんよ」。
神戸・三宮に出掛けたときは決まって、東遊園地の慰霊と復興のモニュメントを訪れる。救えなかった隣人夫婦の名前が刻まれているからだ。
「銘板をなでるんです。また『来たよ』いうてね」。せつ子さんがしみじみ言う。
まちづくり協議会役員で、菅原通3に住む松山朝一(ともかず)さん(74)もうなずいた。「今も亡くなった人たちの顔や名前が浮かんでくる」
少年の手掛かりは今回も得られなかった。だが捜せば捜すほど、町の悲しみが伝わってくる。(上田勇紀)
2015/1/14