【コートに立てる喜び原点 チャレンジL兵庫デルフィーノ監督 木原恵一さん】
スポーツをする意味とは何だろう。阪神・淡路大震災はアスリートや指導者たちに根源的な問いを突きつけた。廃虚の街を目の前にし、葛藤から始まった20年。被災地のため、仲間のため、自分のため…。答えを探し、あの日の記憶を胸に駆け抜けてきた兵庫スポーツ人の「今」に迫る。
週末、尼崎市内の体育館に床をたたくボールの乾いた音が響く。バレーボール・プレミアリーグの下部、チャレンジリーグで戦うクラブチーム「兵庫デルフィーノ」の練習風景。創部メンバーの木原恵一(41)が、選手、コーチを経て今季から監督に就いた。
甲南大バレー部の3年生だった1995年1月17日、下宿していた神戸市東灘区田中町の木造アパート2階で寝ていた木原は、激しい揺れにベッドで叫び声を上げた。隣の部屋の窓から外に飛び降りようとしたが、そこはもう地面だった。アパートは全壊。階下の住人は亡くなった。
4日後、実家の広島市に避難していたところに、バレー部の後輩から訃報が入った。高松市出身で同じ東灘区に下宿していた2年生部員の瀬野保だと聞き、電話口で言葉を失った。
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4月の関西学生春季リーグに向け、部が活動を再開したのは約1カ月後の2月20日。大学の体育館は資材置き場となって使えず、交流のあった名古屋市の愛知大や大同特殊鋼の体育館を借りて土台づくりを始めた。
快く練習場を提供してくれたバレー仲間への感謝と瀬野を失った悔しさが交錯する中、主将の木原を中心に自然と練習は熱を帯びていく。もう一人、30年間チームを指導してきた頓宮(はやみ)英男監督が、病床に伏しており、どうしても吉報を届けたかった。
春季リーグの甲南大ベンチには瀬野の遺影があった。初戦の立命大戦は0-3でストレート負けしたが、これで気持ちに火がついた。翌日の再戦は3-0の完勝。チームは快進撃を続け、最終戦を前に1部優勝が決定。創部45年目にして初の快挙だった。
最終戦の翌日、頓宮監督が、この世を去った。秋季リーグは2人の遺影がベンチで見守る中、春秋連覇を達成。「2人の分まで」としか説明のしようがない特別な力がチームに宿っていた。
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大学卒業後、NTT中国バレー部に入部したが、合理化による企業チーム廃部の波にのみ込まれた。2003年には転勤で関西に戻り、NTT西日本大阪でプレーしたが、2、3年後、活動は縮小されていった。
06年、OBらと阪神デルフィーノを立ち上げた。震災から10年と少し。引き続いて活動の場を求めたのは、まだ全力を出し切っていないとの思いだけでは語れない。あの時の一体感の余韻が体の中に深く沈殿していた。
チームは2年前に「兵庫」に改称し、誕生から間もなく9年となる。メンバーは会社員や教師、保育士らによる混成。企業の後ろ盾がない台所事情は楽ではない。
練習は週2回ほどで、拠点の尼崎で市や学校の体育館を転々とする“ジプシー生活”。ユニホーム代やシーズン中の遠征費は自腹で、若手が車を運転し、試合会場に向かうことも少なくない。その一方で、地元チームの地道な活動は徐々に知られるようになった。ホームゲームにはボランティアが運営に携わり、金銭面での後押しも少しずつ広がった。
愛称の「デルフィーノ」はイタリア語でイルカを意味する。発足時のメンバーが、人を癒やす力があるといわれるイルカのように、周囲に愛されるクラブにしようと名付けた。
あの時も今も、変わらぬ人のぬくもりがある。決して恵まれた環境ではないが、木原は学生時代の記憶を思い起こし、コートに立てる幸せをかみしめている。=敬称略=(小川康介)
▽きはら・けいいち 広島市出身。崇徳高から甲南大へ進み、大学4年時の1995年、関西学生リーグで主将として春秋連覇に貢献。卒業後はNTT中国、NTT西日本大阪でプレー。2006年の阪神デルフィーノの発足メンバーで、今季から監督に就任。
2015/1/14