【日本障害者ローンボウルズ連盟会長 児島久雄さん 車いす生活から12年後 父親が犠牲に】
寒空の下のコートで、視線を一点に集め、車いすから慎重に右腕を振り抜く。ローンボウルズの現役選手、児島久雄は63歳。競技歴は四半世紀以上になる。
ローンボウルズは重心が偏ったボールを転がし、どれだけジャック(目標の球)に近づけられるかで競う。風向きなど条件はそのたびに異なり、奥深い。だが、競技中でもなるようにしかならないと、少々のことでは動揺しない。
転落事故で車いす生活となってから12年後、今度は震災が襲った。神戸市長田区川西通4の自宅で、山陽電鉄を約40年勤め上げた父包邦(かねくに)と妻、息子3人と同居していた。
2階の寝室の窓を開けると、目の前にあったはずの長屋がない。暗闇の中、「助けてくれ」という声が方々から響いた。隣の部屋の父を見に行くと、動かない。落ちてきた本が頭部に当たり、脳挫傷を負っていた。病院に運んだ父を気にしながらも、自分たちの生活で手いっぱい。避難所には車いすが通るスペースはなく、自家用車での生活が続いた。4日後、父の死亡が確認された。
震災前日まで姉家族と四国旅行に行っていた。おじいちゃん子だった小学5年の三男は、時々父の部屋で寝ていたが、あの日は疲れていたのか、自分の部屋で布団に入った。まわりが子どもを亡くす中、父が犠牲を一人で引き受けてくれたのかもしれない、と思った。
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何もしなかったら、つまらないことを考えてしまう。そんなとき、ローンボウルズが気持ちを支えた。事故のとき、競技に出合えたからだった。
1983年7月、炎天下で瓦ぶき職人として屋根で作業中、尻から落ちた。気付くと足が頭の上にあり、手は背中の後ろ。脊髄損傷のほか、胸椎、腰椎などを骨折する大けがで、下半身不随になった。
前向きな性格でも、数カ月間はベッドから動けずに落ち込んだ。10日前に三男が生まれたばかりで、早くこの体を受け入れないと、と自身を奮い立たせてリハビリに励んだ。
翌春から職業訓練校で学び、自宅で貴金属加工業を始めた。体育の授業などでバスケットやマラソン、テニスをするようになり、障害者団体の誘いでローンボウルズを始めた。当時国内で障害者の競技者はほとんどいなかった。わずか1年ほどの練習で、89年に神戸市で開かれた障害者スポーツの祭典「フェスピック」に出場し、ペアで優勝を飾った。集中力を高め、無心になれる瞬間。のめり込んでいった。
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震災後、競技を再開したのは95年9月ごろ。プレー中だけはすべてを忘れられた。交流のあった韓国選手の誘いで訪韓もし、11月にはニューヨークシティー・マラソンに被災者として招待された。神戸のことが伝わればと走ったが、一番は自分が楽しめた。
震災20年を前にした昨秋、初めて採用されたアジアパラ大会に出た。国内の競技人口はまだ50人ほどだが、ローンボウルズで知り合えている人がたくさんいる。もう少し、輪を広げたい。せっかくおもしろいことに出合ったのに、まだまだ引退は考えない。
事故も震災も経験してから、元気な人には思うことがある。できないことはない。もっとやれるはず、と。いつまでも悔やんでも過去は変えられない。ぼちぼちでも、前を向いて進んだ方がいい。=敬称略=
(井川朋宏)
▽こじま・ひさお 神戸市長田区出身。県神戸工高を卒業後、瓦ぶき職人となる。同市垂水区内の現場で転落事故に遭い、ローンボウルズを始める。アジアパラ大会シングルス4位。2月のニュージーランド世界大会に出場予定。日本障害者ローンボウルズ連盟会長。
2015/1/16