【豊田自動織機女子陸上部監督 長谷川重夫さん 消えた独善「サポート役に」】
1995年2月24日。長女里沙は2歳を待たずに息を引き取った。
震災前日の1月16日。教え子の高校生も出場した全国都道府県対抗女子駅伝が京都であった。大会後は泊まることが多かった長谷川重夫(51)だが、その年は足早に神戸に帰った。いつもは自室で寝るのだが、疲れていて里沙と一緒に横になった。垂水区のマンションを激しい揺れが襲った。
里沙は生まれつき心臓が悪く、酸素吸入器が手放せなかった。地震で家の中はぐちゃぐちゃ。予備の酸素ボンベに切り替え、ワゴン車に避難した。だが、適応能力の低い里沙は高熱を発し、体調は悪化していった。
ずっと苦しんできた娘になぜこんな試練が。痛々しい小さな体に心臓マッサージや電気ショックなんてできなかった。短い生涯を閉じた。自分はあの晩、自室で寝ていたらたんすが頭部に倒れていた。運命。里沙が助けてくれたのだろうか。
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病弱だった娘を持ち、震災では練習場所を失った。健康と整った環境。当たり前のことが身に染みた。迎えた95年12月の全国高校駅伝は無心だった。チームは兵庫高校最高記録を更新し、兵庫勢女子で過去最高の5位に入賞した。
だが、その後は入賞こそ続けるものの、頂点にはたどり着けなかった。優勝候補と言われた2000年も一歩届かず、前年に続いて2位。幾度もチャンスを逃した。03年、悲願の初優勝を成し遂げたとき、ふと立ち止まって振り返った。過去最強とは言えない布陣で勝てた。これまではなぜ勝てなかったのか。
波乱の日々を送り、気付かぬうちに自己中心的な指導に陥っていた。
健康な体があるのに。練習できる環境があるのに。どうして頑張らないのか。選手に勝たせてやりたいとの思いが増幅し、いつしか自己の勝利への欲求にすり替わっていた。主役はあくまで選手という基本的な理念が抜け落ちていた。初優勝から3年後の優勝は、違う味がした。
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震災では数え切れないほどの支援を受けた。だからこそ、毎年1月に行われる全国都道府県対抗駅伝への思い入れも強い。風化させず、兵庫県として感謝の気持ちを伝えていく。元気な姿をアピールする。テレビ放映もある大会は、発信源としては格好の場だ。兵庫は上位争いの常連で、自身も女子を率いて03年から2連覇を達成した。
11年からは愛知県に単身赴任し、実業団の監督を務める。20歳前後の選手も多く、娘の1歳下に当たる同名の部員もいる。指導を始めたころにはなかった親のような気持ちが顔をのぞかせる。もっと規律正しく接しなければいけないと分かっていても、つい優しくなってしまう。
13年は故障者が出て、チームはぎりぎりの状態だった。全日本実業団対抗女子駅伝は16位に沈んだ。指導者としての経験を積んできたが、分からないことはまだまだ多い。ただ、さまざまな方針の変遷を経て、サポート役に徹するという考えに行き着いた。
独り善がりな指導に傾いてしまった時代もあったが、今は周囲に相談し、協力も仰ぐ。トップダウンの実業団にはしたくない。監督やスタッフが入れ替わっても、揺らぐことのないチームをつくる。一人の力にはしょせん限界がある。これも震災から教わった。
=敬称略=
(橋本 薫)
▽はせがわ・しげお 兵庫県稲美町出身。西脇工高1年時に全国高校駅伝でアンカーを務めた。国士舘大を経て1987年に須磨女高(現須磨学園高)に赴任し、同駅伝で2度の優勝に導いた。2011年から豊田自動織機女子の指揮を執る。愛知県刈谷市在住。
2015/1/15