【武庫荘総合高野球部監督 植田茂樹さん 今知る 人の強さと優しさ】
最高の舞台にあったのは、たどり着いた喜びとそれ以上の重圧だった。
1995年8月13日、高校野球の聖地甲子園に植田茂樹はいた。まだ青年監督といえる31歳が、創部45年の尼崎北を率いて兵庫大会を初制覇。地元校、被災地代表として迎えた初戦の青森山田戦は、盆休みも重なって観客がスタンドを埋めた。
その7カ月前、西宮市上ケ原山田町の自宅マンションで激震に遭った。妊娠中の妻歩が、2週間先の出産予定日を前に変調を訴えた。神戸市須磨区の病院に向かうが車は進まない。へその緒を切るためにと、歩はライターであぶったはさみを手にしていた。約16時間後に到着。22日、長女実(みのり)が無事誕生した。
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野球部に合流できたのは約1か月後。その間選手は自主的に練習をし、監督を待った。尼崎北の被害は比較的小さく、それを知ってか知らずか、練習試合に行く道すがら「こんな時に野球ですか」と声をかけられもした。自粛ムードを肌で知っていた選手たちは、教えるまでもなく自分たちは生かされていると感じていた。それぞれが震災の意味を考え、野球に打ち込んだ。
その延長線上に7月の兵庫大会があった。全員で野球ができる喜び、ありがたさがさらに強くなっていたのが分かった。だから勝ち上がっても、不思議とプレッシャーを感じなかった。決勝では神戸弘陵を5-2で破った。
それが、優勝インタビューで被災地への思いを問われた時に一変した。被災地を代表するという“使命”を突きつけられ、うまく答えられなかった。選手も同じだった。ある選手は後に「十字架を背負った」と振り返った。
アルプス席にあいさつを済ませた選手たちの目は泳いでいた。動揺を抱えたチームは失策を重ね、9回二死までリードしながら、延長十三回の末に6-7で負けた。試合後、御影の宿舎へどうやって帰ったのか、植田はよく覚えていない。
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甲子園は2度目が遠い、と言われる。95年夏以降は迷いの中にいた。当時のチームをモデルにしたり、そこから離れたり。どうしてあの夏勝てたのか、自身でもぴんとこない。選手との関係に悩むことも、経験を否定されることもあった。
転機は2012年2月に訪れた。震災で記念品を受け取れなかった95年春夏と96年春の甲子園出場校に、西宮市から写真盾が贈呈されることになった。甲子園で再会した教え子と思い出を語り合ったことがきっかけとなり、翌月、指揮を執る武庫荘総合の選手たちに手紙を配った。
「親愛なる君たちへ」と題した文章には、体格、実力でも劣った尼崎北がなぜ勝てたのかを書いた。そして、「プラス思考で怖いものなし。人間としての強さと優しさがあったのだと思います」と結んだ。あの時から16年半。重ねた時間がそう思わせた。
関東の強豪大学を見学するなどし、今も貪欲に指導法を進化させようとしている。11年春、武庫荘総合は県大会で初出場ベスト4。13年夏には8強。2度目の聖地を目指し、しっかりと着実に歩を進めている。
振り返れば、喜びも重圧もあった95年は、指導者としてのゴールではなく始まりだった。今年の1月12日早朝。成人式の着付けを控えた娘に見送られ、いつものようにグラウンドに向かった。
=敬称略=
(大盛周平)
▽うえだ・しげき 尼崎北高-関学大出。俊足巧打のプレーヤーで、両チームでともに主将も務めた。大学卒業後に社会科教諭となり、1990年に尼崎北高の監督に就任、99年夏まで率いた。県西宮高を経て、2010年秋からは武庫荘総合高監督。西宮市在住。50歳。
2015/1/17