お母さんが、誰かの体をかりて見守ってるから大丈夫よ、と言われたことがあります。
ほんまに、どっかから見てるんちゃうん? いないのが悲しいはずなのに、不思議と気持ちが和らぐ。母親になったからこその気持ちの変化なのかな-。
阪神・淡路大震災から20年がたった17日の夜、早川(旧姓・長尾)美幸さん(27)=神戸市中央区=は、インターネットの交流サイトに、亡き母、長尾裕美子さん=当時(43)=への思いと、支えてくれた人たちへの感謝をつづった。
この日早朝、夫文章さん(33)、生後7カ月の長男結(つなぐ)ちゃんと中央区・東遊園地を訪れた。「不安になったときに誰かが手を差し伸べてくれる。本当にありがたいな」
生まれる前から長男の名前を「つなぐ」と決めていた。美幸さんは、交流サイトに書き込んだ文章をこう締めくくっていた。
震災を知らなくても、きちんと感謝の気持ちを持てるよう、伝えていきます。その意味を込めて“結(つなぐ)”と名付けたのだから。
□
20年前、父政三(まさみ)さん(66)、裕美子さん、中学生の兄2人と同市長田区のアパートで暮らしていた。震災で自宅は全壊。近くの西市民病院に検査入院していた裕美子さんは、病棟が崩壊し犠牲になった。
地震前日、7歳の美幸さんは、裕美子さんと電話で話した。「明日朝、おうちに帰るからね」「うん!」。それが最後の会話になった。
まだ、小学校2年生。母が亡くなったことをいつ、どう知ったのか、覚えていない。
当時、中学3年生だった兄、貴幸さん(35)=長田区=が記憶をたどった。「母の死を小さい美幸には言わんとこう、とおやじと弟と話した。でも、雰囲気で察したのか、美幸から聞いてきた。『お母さん、死んだん?』って」
震災から2日後、そう問われた時、政三さんは無言で美幸さんを抱きしめるしかなかった。「どうしてー、どうしてー」。美幸さんはわんわん泣いた。
8歳下の美幸さんを「目に入れても痛くない」とかわいがってきた貴幸さん。「『美幸ー』と呼ぶと、キャッキャしながら飛んでくる妹やった。でも、お母さんが帰ってこないと知った瞬間、変わったんです」。その日を境に、美幸さんから笑顔が消えた。
* *
私たちが、美幸さんと出会ったのは11年前。高校生のときだった。口数が少なく、とっつきにくい印象さえあった。だが、歳月を重ねるごとに少しずつ変わっていく。今年の「1・17」は、赤ん坊の手を包み、優しい母の顔を見せていた。震災で傷ついた少女を支え続けた家族の20年を振り返りたい。
(宮本万里子、岩崎昂志)
2015/1/19