舗装された遊歩道を親子連れが散歩し、広場に子どもの笑い声が響く。神戸市長田区の西代蓮池公園には穏やかな空気が流れる。
阪神・淡路大震災後は、今とはまるで違う風景があった。30棟、248戸の「西代仮設住宅」。ピーク時は500人以上が暮らした。市民球場を用地として利用していたため、スコアボードがあり、ダッグアウトに洗濯物を干す光景も見られた。
妻裕美子さん=当時(43)=を亡くした長尾政三(まさみ)さん(66)一家は1995年夏に入居。長男貴幸さん(35)は16歳、次男誠さん(32)は中学2年。末っ子の美幸さん(27)はまだ小学3年生だった。
妻を亡くした政三さんには喪失感が大きかった。建設業を営んでいたが、震災後、働く気力がわかなかった。蓄えを切り崩し、酒におぼれた。
寂しさと、先の見えない不安。ある夜、政三さんは乗用車に3人の子どもを乗せ、海のそばに行ったことがある。
「お母さんのところに行こか」。後部座席で誠さんと美幸さんが寝ていた。助手席の貴幸さんが父に言った。「おやじ、美幸の顔を見てから考えや」。政三さんは泣きながらとどまった。
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「妻の死に報いたい」。政三さんは高齢者らの見守りボランティアに没頭するようになった。当時、美幸さんに笑顔はなく、話しかけられても「うん」としか答えない。片時も離れまいと、ひたすら政三さんにくっついていた。
夜、美幸さんを寝かせる時、政三さんは童謡を収めたカセットテープをかけた。A面が終わるころ、眠りにつく。見届けた政三さんが横を離れようとすると、美幸さんの手が決まってもそもそと動き、父がいることを確かめた。
美幸さんは小学校の作文にこう書いた。「(父に)早くボランティアをやめてほしいです」「おかあさんをころした地しんが大きらいです」
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夏の仮設住宅は暑く、冬は底冷えがした。ここで4年余りを過ごした。級友から「いつまで仮設におるんや」と言われることもあり、小さな心と体が悲鳴を上げていた。
99年冬、やっと復興住宅に移れた。「夢も希望もあった」と、美幸さん。だが、復興住宅では住民同士のコミュニケーションが減り、だれにもみとられずに亡くなる「独居死」や自殺が相次いだ。
「震災で奇跡的に助かった命なのに。復興って何なん?」。美幸さんは、あまりにも厳しい現実を受け止められなかった。
(宮本万里子、岩崎昂志)
2015/1/21