夜はとっくに明けているのに、廊下も階段も真っ暗だった。「痛いッ」「助けてー」。あちこちから叫び声や泣き声が聞こえた。
1995年1月17日昼、中学生だった長尾貴幸さん(35)は、母の入院先の西市民病院(神戸市長田区)に駆け付けた。
母裕美子さん=当時(43)=の病室は5階。階段を駆け上がると、3階で職員に止められた。「ここから上はあかん」-。
「母親が5階におるねん」。貴幸さんは粘ったが、「無理や」と追い返された。座り込んでいる患者が何人もいる。顔をのぞき込み、母を捜したがどこにもいない。貴幸さんはいったん家族のもとに戻ることにした。
母の病室がある本館5階は押しつぶされていた。
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妹の美幸さん(27)は当時、長田小学校2年生。西市民病院の北側にあるアパートで、父政三(まさみ)さん(66)と裕美子さん、高取台中学3年貴幸さん、同1年誠さん(32)の5人で暮らしていた。
大きな揺れがアパートを襲った時、兄2人は布団にもぐり込み、政三さんは美幸さんに覆いかぶさって倒れてきたたんすから守った。傾いたアパートを出た4人は、中学校へと避難した。
17日夜、妻の無事を疑わなかった政三さんは、着替えを持って西市民病院へ。地震が起きたとき、病院には患者や職員ら約280人がいたが、職員から「奥さんだけ見つかりません」と告げられた。政三さんは体の力が抜け、その場にへたり込んだ。
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裕美子さんは、貴幸さんの進路相談で中学校へ行くため、17日午前に退院する予定だった。早朝に採血を済ませ、病室に戻る途中、地震に遭った。同じフロアには患者44人がいたが、夜までに次々に救助。裕美子さんだけ翌18日の夜、がれきの中から遺体で発見された。
政三さんは「あかんかった」と、貴幸さんに母の死を伝えた。美幸さんは避難所でトランプをして母の帰りを待っていた。「言えん」。政三さんも貴幸さんも幼い美幸さんを思い、胸が痛んだ。
父や兄の様子に変化を感じたのか、美幸さんは、自ら母の死について尋ねたという。
政三さんは、美幸さんに言った。「お母さんは帰ってきいひん」。どうしても「死んだ」と言えなかった。
約1週間後に火葬。遺体は損傷が激しく、遺骨を見た政三さんがつぶやいた。「拾う骨があらへん」。家族全員が声を上げて泣いた。(宮本万里子)
2015/1/20